そんなことを考えると秀吉は動けない、動くとすれば不満分子の頭(かしら)を素早く打ち砕くしかない、自分が後継ぎとして関白にまで持ち上げた、甥の豊臣秀次が、その「かしら」だから悩み抜いている、だがわが子、秀頼は可愛いし、生母淀殿も愛おしい
その淀が、秀次を異常なまでに恐れている、それは秀頼を守り、秀頼に秀吉の後を継がせたいと思うからだ
だが分が悪い、秀頼派は前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元あたりは堅いだろう、これに石田三成、増田、大谷、大野など近江派の秀頼の旗本大名も当然味方だ。
だが秀次派は3万石前後の付け家老だけでも10名近い、更に尾張、美濃の諸大名、利休高弟で秀次と近しい茶大名、さらにキリシタン大名も味方するだろう、それよりも徳川家康の動向が気になる、また北政所も何かと秀次を心配しているようだ
「なんとか円く収めることはできぬか」秀吉はそれを問う、気弱な老いの自分が出てくる、それなのに突然、「あとには一歩も引くものか」という頑固な秀吉に戻ることもある。
まるで二重人格のようなこの頃である、昨日言ったことを忘れる、だから石田三成でさえ戸惑うことがしばしである。
秀吉の妄想は、次第に現実と空想の境目が怪しくなってきている、被害妄想なのかあたかも秀次の謀反が始まるかのように思えてくる
文禄六年の六月末、ついに秀吉を踏み切らせる情報が耳に入った
それは「聚楽第に南蛮人が何度か訪れている」という情報であった
7月3日、石田、増田ら奉行衆数名が聚楽第に秀次を訪ねて、巷で噂されている謀反についてせ詰問した
当然ながら秀次は、それを「悪意の噂である」と否定したので、石田は誓紙を書かせて伏見城にもどった。
「殿があらぬ嫌疑をかけられておるそうじゃ、それも謀反と言うから穏やかではない、これはどう考えても石田治部少と増田長盛の企てじゃ
太閤殿下のお子が産まれたので、わが殿が太閤殿下の後継ぎに決まったのを覆そうと企んだ者の仕業じゃ、奴らは幼い若君に代わって政権を奪うつもりじゃ
石田らこそが謀反人である、これを黙っておられようか
これより直ちに伏見城へ行って、太閤殿下に弁明しようではないか」
そう言いだしたのは秀次の家老、羽田正親であった。 彼は大和の内で48000石をいただく大身の家老である
これには木村、栗野、服部をはじめ数名の家老が同意して伏見城に押し掛けた、そして弁明書を秀吉に渡すべく行ったのだが、秀吉は会うことはなく
だが弁明書には目を通した
そこには、「このような悪意に満ちた噂は根も葉もない、大坂城に巣くう逆臣の企てである、関白殿下はそのような企みなど思ったこともない」とか
「太閤殿下を欺く者どもを、くれぐれも信用なさらず、そのような輩は厳罰に処していただきたい」などと数条書かれてあった
これを読んだ秀吉は逆に怒った
「これを持ってきた、たわけどもはまだいるか」と家来に聞くと
「先ほど、帰りました」と言う返事
「直ちに、ここに連署している者どもを捕らえて、上杉家の京屋敷に押し込めよ」と命じたので、たちまち捕吏たちが走って秀次の家老や重臣10名ほどを逮捕して引き立てた。
この話を聞いた家老の白江成定は関白秀次に対して、「もはや何を申し開きしても、目が曇った殿下は許しはしますまい、ここは聚楽第に籠城して、細川様や徳川様、前田様、北政所様に仲介をお願いするしかありません」と言って支度を始めたところに、石田三成、増田長盛、前田利長らが兵を率いてやってきて
「関白秀次、太閤殿下よりそなたに謀反の嫌疑あり、直ちに支度をして奉行の指図に従うべし」と有無を言わせず車に乗せて木下吉隆の屋敷に謹慎させた。
吉隆は、秀吉の馬廻り衆であったが覚え目出度く豊後で35000石をいただいた
この男こそ、秀吉の出世の糸口を与えてくれた尾張の三蔵である
若いころの藤吉郎(秀吉)の片腕となり、藤吉郎から木下の姓も与えられた。
最初の側室「ふじ」との連絡役も務めてくれたあの三蔵(木下三右衛門蔵人)である。(3話、6話、35話参照)
秀吉はついに決心したのだ、あまりにも心を悩ませる問題が多すぎて、さすがの秀吉も錯乱しそうであった、大きな問題の一つでも片付けなければ精神が壊れそうだった、そして消し去る難題の一番手に挙げられたのが秀次であった
秀次がいなくなった聚楽第へ兵士が送り込まれて、中にいた秀次の正室と20数名に及ぶ側室、秀次の幼い子供たち、付き従う女中、老女までことごとく縄をかけて数珠つなぎにして秀次の家老、徳永寿昌の屋敷に監禁した。
翌日には石田三成らが木下の屋敷を訪れて、秀次に罪状を読み上げた
一、南蛮人を招き、キリシタン布教を認める密談を交わし、それらの力を借りて謀反をおこさんとしたこと
一、朝廷工作に、多額の金銀を太閤殿下の許可なく振りまいたこと
一、毛利をはじめ大名に対して金銭を貸したこと、これには一の台とその父である今出川晴陶(はるすえ)も一味の疑いあり
一、無用の殺生の疑いあり
一、茶の湯、鷹狩、戒めたにも関わらず、太閤殿下に許可なく執り行い、謀反談義の疑いあり
一、側室はほどほどの人数にするよう言いつけたにも関わらず、数限りなき事
一、前の左大臣など側室の実家を味方として、拾いの排除を企てたこと
以上の罪状は家老らの取り調べにより明白である
よって羽柴秀次は、関白及び左大臣の職を解く、高野山にて謹慎とする。
そして即刻、秀次は家老の白江備後守や小姓など少数の供回りと共に、福原長尭(ながたか)、福島正則、木下吉隆などの軍勢に監視されて高野山に上った。 秀次は観念したのか、一言も弁解せず粛々として乱れることはなかった
凡そ1週間後の7月15日、高野山金剛峰寺の御堂の一つに於いて秀次の刑は執り行われた。
検視官の前で、秀次に殉死を申し出た小姓数名の切腹の介錯を、秀次が自ら太刀をふるった、そして秀次も切腹した。
26歳あまりにもあっけない最期であったが、豊臣秀長の娘を娶って大和豊臣家100万石を継いだ弟、豊臣秀保も同年4月に不審死していたので、これも秀吉の差し金による暗殺ではないかと都雀たちは噂した。
巨済島で病死した秀勝も含めて3年の間に、秀吉の姉「とも」の三人の息子たちは全て死んでしまい、夫の三好吉房も四国に流され、秀次の子供たち(ともの孫)も赤子一人だけ残して全て殺された。
秀吉が、実姉に与えたダメージは豊臣家に与えたダメージそのものであった
秀次の切腹を介錯した家臣もまた切腹して主君の後を追った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/55/a3e053f2f1fde17316bd72877a8e979e.jpg)