同じころ奥州に帰った伊達政宗もまた、軍師参謀の片倉小十郎景綱と語っていた。 景綱は政宗より10歳年上で36歳、政宗の父輝宗の小姓から政宗の側近になり、その才覚を表し奥州の刈り取りに疾走した勇猛な武将であり、知恵袋であった
武田信玄に板垣信方、山本勘助、今川義元に太原雪斎、上杉景勝には直江兼続があり、秀吉には竹中半兵衛、黒田官兵衛、豊臣秀長
毛利輝元には小早川隆景と大きくなった大名には立派な軍師がついている
その点では独断専行の独裁者、織田信長は己の才覚だけを頼り、知恵袋を置かなかったから、最期に失敗してしまった。
秀吉などはもってこいの軍師だっただろうが、信長はそれを許さず、単なる軍団長の扱いしかなかったのだ。
奥州伊達家は藤原氏で、祖先が源頼朝に従って奥州に攻め込み、そこで伊達の領土をいただいたところから始まるという名家である。
足利幕府最盛期の頃には、伊達家も奥州で基盤を固めていて武に財に抜け出ていたようだ、その後衰退するが
政宗の祖父、稙宗、父、晴宗の時に本拠の宮城、山形、福島にかけて数郡ずつ領土を得て、奥州で1.2の勢いを取り戻したが父子の中は対立構造であった
晴宗が敵に討たれて、若い政宗が継ぐと、領土を更に広げて宮城、福島の大部分と山形の一部を切り従えた、さらに越後や羽前を伺った頃そこで秀吉に従うことになる。
山形の最上氏は政宗の母の実家であり、政宗が弟を殺害した時から、実家に帰っている。
政宗は幼いころ病に遭って片目を失っているがめげず、奥州600万石の4分の1を手中にしたから、人々は独眼竜政宗と称して恐れた。
「儂が見るに太閤は老いぼれた、子が出来てなおさら老いぼれたようだ」若い政宗は快活に言った
「・・」景綱は何も言わず、次の言葉を待つ
「頭を押さえられて身動きできなかったが、もうしばらくの辛抱じゃ、天下をあきらめたわけではない」
「慎重になさいませ、殿は諸大名よりはるかに若く、同じ年代の大名より遥かに武でも知恵でも勝っております、10年内に天下を伺えるでしょう」
「そうよ、10年うちに形を作って見せよう」
「だが、徳川様には注意なさりませ、とても今の我らでは太刀打ちできませぬ
太閤より若く、質素な暮らしぶりであり、人質経験をして辛抱強い、体にはより気を付けて、自ら薬を調合して滋養強壮に気を配っておるとか、彼もまた長生きして豊家の後を狙っているのでありましょう」
「いかにも徳川は不気味じゃ、太閤には徹頭徹尾従っているようで、その真意は全く見えぬ」
「徳川様には日頃より、誼を通じておくのがよろしいでしょうな」
「うむ、わしもそう思っておる」
「徳川様も太閤より若いとはいえ、殿のご先代様と同年代でありましょう、しかも後継ぎの結城秀康殿は養子に出され、次の秀忠殿はまだ14歳とか、うまくいけば、うまくいきますぞ」
「まずは徳川様の機嫌取りじゃな、話はそれからじゃ」
ここにも天下取りをあきらめていない若者がいたのだ。
秀吉が死ねば、秀吉に金メダルを奪われた選手たちは、再びスタート地点に立つであろう、秀吉の後継者はあまりにも幼く、それを守り盛り立てるべき一族の諸大名は才がなさすぎる。
竹中半兵衛が若くして亡くなり、黒田官兵衛は、その性質を見て遠ざけ、もっとも頼りにした弟、秀長も死んだ、今や良き参謀たちを失った裸の王様、あれだけの才能で天下を取った秀吉が大きな間違いを犯そうとしている
日本と大明の間に和平会談が何度も持たれて、今は平和がもたらされている
互いの兵士たちも、ようやく祖国に戻り平和のありがたさを思っているだろう
朝鮮に残った日本兵たちも、北部で戦っていた時のような寒さや、ひもじさから解放された。
秀吉の命令で、次期の戦に備えてためておいた備蓄米の一部が解放されて、兵士にいきわたったからである。
ところが明への日本使節団を警護して遼東まで行った兵士が戻ってきて言うには「ひどい有様じゃ、朝鮮の村は荒れ果てて、どこも飢え死にした朝鮮人で溢れておった。 生きている者も大飢饉で今日の食い物に飢えて居った
儂とて、朝鮮の茶店で飯を食って帰ってくるつもりでいたが、そんな悠長なものではなかったわい、われらはこうして釜山におって、飯も不自由なく食えるが、忠州や清州あたりで戦を続けていたなら、あの朝鮮農民と同じことになっていたであろう」
「そうじゃのう、儂らはいわれるがままに働いておるが、わが殿には殿下からご加増があるのじゃろうか? 朝鮮を取ってしまわんことには加増もないのではなかろうか、骨折り損のくたびれもうけでは死に損じゃ」
「いや、仮に朝鮮で田畑をもらったとて日本の故郷と比べられぬ、儂は狭くても故郷が良い、この地にはとても住むことはできぬ」
「しかし、朝鮮の王族とは意気地がないものよのう、民を置き去りにして夜逃げ同様に消えたというではないか、我らが戦っている勇ましい朝鮮兵はみな地方の庄屋や名主や百姓だと言うことじゃ、王族は唐まで逃げて、それを守る禁裏の兵は、王族を守らず逃げ去ったというぞ、儂も百姓出身だから朝鮮の百姓の気持ちも少しはわかる気がするぞ
民を守れぬ王では何のための王かわからぬ、民が離反するのもわかる」
「だがのう、大きな声で言えぬが、我らのお味方の兵も、ひもじさと寒さに負けて朝鮮軍に逃げ込んだ者がかなりいるようじゃ、それも家中で名のあるさむらいまでも投降したというぞ」
「わかるわかる、腹が減っては戦はできぬからのう、命あっての物種とも言う、儂とてそうなれば降参するかもしれぬ」
「早く国へ帰りたいのう、おっかあに抱かれて寝とうなったわ」
この年の夏頃、秀吉は秀頼の為の足固めとして、将来秀頼を守ってもらいたい毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝を朝廷に推挙して、権中納言の官位を与えてもらった。
秀吉は、この頃、体の不具合を感じている。 疲れやすい、物忘れもする、目がかすみ南蛮人から眼鏡というものを貰って使うほどだ
前田利家も老いた、その利家を見るたびに自分を見ている気になる、たとえ十歳でも若い家康などを見るたびに不安になる
それはもちろん秀頼の将来の心配だ、自分の後に数多の猛者がいる、誰がいつ反旗を翻すかわからぬ
秀吉は帰国して側仕えしている石田三成を呼んだ
「秀次の周りでの不穏な動きや噂話でもよい、出入りする者たちも書き記せ、有力大名の動きも調べよ、間者を放って逐一儂に知らせよ」と命じた。
