若き頃、快活な青年武将、羽柴秀吉に憧れて武家社会に身を投じた秀次であった、秀吉の後援で順風満帆な人生を送ったが、秀吉の最期の攪乱の犠牲になったとしか言いようがない。
誰から見ても、秀次が謀反を起こそうとしていたなどとは言いがかり以外の何物でもない
石田三成さえ、秀吉にいわれるがままに書いた糾弾書を読みながら、秀次に同情を禁じえなかった。 三成さえ、秀次の無実を知っていた
だが、誰一人として秀吉に意見できるものはいなかった、言えばたちまち一味と言われて大名であっても命を落としたであろう。
それでも秀次の家老の多くは、秀次の無実を堂々と訴えた
羽田正親4万8千石、明石則実2万2千石、白江成定6万石、木村重玆、18万石、栗野秀用13万石、服部一忠3万5千石、渡瀬重彬、本多正氏などである
多くは秀吉に仕えて、秀吉から万石大名にされた者たちである
秀次が100万石の大俸を得た時に、付け家老として送られた者が大部分だったそして全て切腹、または斬首になった。
秀次の陪臣であっても、戦での敗者でもないのに、このような大身の大名がまとめて粛清されたとは前代未聞であった
それだけではない、
秀次の家臣でない独立大名では、北政所の妹ややの息子、浅野幸長だけは、秀次の無実を訴え続けた
それがために秀吉の怒りを買い、「幸長め、長政の息子であることを良いことに儂にたてつきおって!、秀次同様に腹を切らせねば諸侯に示しがつかぬ」と言ってすぐに幸長を謹慎させた。
すると聞きつけた北政所が、すぐに伏見城に駆け付けて
「おまえさま!気でも狂ったかね、秀次をすぐに開放しなさい、幸長はなおのことです、おまえさまは大きな間違いを犯そうとしています、豊臣家を滅ぼす気ですか」
だが秀吉も頑固さでは負けず「誰が何とゆうても許すわけにゃいかん、身内であるから尚更許せんのじゃ、秀次の謀反の証拠はどうにも動かせん」
「秀次はともかく、幸長まで罪に問うとは、あの子は豊臣家の将来を危ぶんで秀次の無罪を命がけで申しているのですよ、褒められても罪に問われる筋合いはありません」
さすがに糟糠の妻、北政所に言われては仕方なく、「では幸長の死罪は許そう、じゃが儂に楯突いたからには無罪放免とはならぬぞ、減刑して能登へ流罪とする、それでよかろう、長政は罪に問わぬことにする」
ねねも、ここらで妥協するしかなかった、幸長は流罪になったが、前田家は厚く保護した、その後、前田利家や徳川家康の取り成しもあって、一年足らずで復帰できたのだった。
この他にも、秀次から金銭を融通してもらっていた毛利や細川も謀反加担を疑われて謹慎処分、後日取り調べを受けることになった
さらに、奥州の伊達、最上も秀次に近いと思われ嫌疑をかけられた。
関白家の犠牲は大きかった、秀次はもちろんだが、家老や重臣がほぼ全員10名ほど切腹したし、秀次の小姓や馬廻りの武士は、これも20名ほど殉死した
そのほかにも、秀次の生前の恩に報いると言って自害した町人や僧侶などもいたのだ
熊谷直之は秀次の付け家老であったが、秀吉が人柄を愛して、頼んで付けた者であり、秀次の傍にいつもいたわけではなく、全く関与していなかった
それで秀吉は罪に問うこともしなかったが、真面目な直之は責任を感じて切腹したので、これには秀吉もショックを受けたようであった。
また本多正氏は前に書いた通り、元徳川家臣で、徳川家康の知恵袋、本多正信の甥、秀次の家臣となって情報を正信に送り続けていた
そして最後には、自らを犠牲にして秀次騒動の炎を大きくするために動いた、懇意にしていた家老の羽田らを扇動して、できるだけ秀吉を刺激するように努めたのだ
そのため切腹を申し渡されたが、正信への遺書で「徳川家の行く末の人柱となれることは名誉である」と書いて死んだ。
切腹した家老の中には、秀吉に縁ある者も多かった、それは当たり前だ、秀次につけられた家老の何人かは秀吉の馬廻り衆から出世した者であり、秀吉の命令で秀次に送られたのだから。
だが秀吉は、そんな者たちにさえ容赦なく切腹を命じた。
明石則実は、黒田官兵衛とは従兄である、当然ながら官兵衛、長政からは助命嘆願が寄せられたが頑として秀吉は受け付けなかった
瀬田正忠は、利休の高弟七人の一人であったが、同じく高弟の秀次と利休を通じて親しく交わっていたことを咎められ、切腹を命じられた
細川忠興も高弟で親しく付き合っていたので嫌疑をかけられた。
木村重玆は18万石の大身であったが、これもまた宿老で利休の高弟であったこともあり特に秀吉は「罪一等」と定めて、重玆だけでなく嫡男も切腹、娘を磔の刑に処すなど特に厳しく処した。
服部一忠は、小平太と言いかっては織田信長の近習であった、桶狭間の合戦では敵の大将、今川義元に一番槍をつけて、功二等として褒美を賜った人物である、秀吉の上司であった重鎮服部さえも切腹に処された。
前野長康は、蜂須賀小六の兄弟分で川並衆、藤吉郎時代、墨俣城建設で世話になった兄貴分でもあるが、これも情け容赦なく切腹を命じた
さらに、幼馴染の木下吉隆(三蔵)も秀吉に引き立てられて大名に出世したが、秀次を高野山に護送した後。何かの嫌疑をかけられて薩摩へ流罪となり、3年後に謀殺されたという、それは秀吉の死と前後している。
だが中には徳永寿昌のように早くから、石田三成に内部を逐一知らせていた家老もいた、当然ながらおとがめなしであった。
だが事件は、これだけの犠牲者を出しても終わらなかった
秀次切腹から数日後、彼の正室、側室、子、乳母、老女、御付きの女子衆まで京の三条河原の刑場に引き出されて、多くの京市民の前で公開処刑された
総勢30余名、罪なき罪に問われて、無残にも斬首となった。
秀次の子は2歳から5歳くらいの童すべてが斬首された、秀次家は滅びた。