話は少し前後する。
池田輝政は、柴田勝家との賤ケ岳の戦で秀吉に味方して討ち死にした勇将、中川瀬兵衛清秀の娘を正室にしていたが、長男が産まれた後、病気がちになり実家に帰ったので独り身であった、それに気づいた秀吉は後妻を世話しようと考えた
北政所ねねに相談すると、「それなら亡くなった(小吉)秀勝の室だった、江姫はいかがですか」と言った
「なるほど、どちらも伴侶を失って寂しい思いをしておる、それは良い考えじゃ」と言って、さっそく輝政に話すと
「それはありがたきお話でありますが、実は徳川家康様から、亡くなった北条氏直室でありました徳川様のご息女を娶る話が進んでいるのです」と言う返事が返って来た、秀吉は少しがっくりしたが「それは良い話である、そのときには儂からも祝いの品をやるとしよう」とその場を締めた。
だがそれから間もなく朝鮮出兵が始まり、名護屋で秀吉は家康に会ったので、輝政と、家康の次女督姫の話を持ち出して話した
すると家康は「これはまた奇遇でございます、実は殿下に改めてお願いがありまして」
「うむ どんな話であるかな?」
「池田殿に娶わせるつもりであられた、江姫さまの話ですが、わが嫡男となる秀忠にいただけませぬか」
「なに? 秀忠殿とな ふうむ・・・だが江姫はかなり年上ではないか」
「それがちょうどよろしいかと 秀忠は性質温厚にして、いささか急がぬところがあります、年下の嫁より、尻を叩いてくれるような姉様女房の方が良いと存じまする」
「ははは、それは良いかもしれぬ、江は既に一度嫁いだ身じゃ大名家の切り盛りも慣れておろう、信長様の姪であるし徳川家にはふさわしいであろう、許す
それにしても江姫は数奇な運命のお方よ・・・織田信長様の姪で、浅井家の姫としてうまれ、豊臣家の室となり、今度は徳川家に嫁ぐ」
「大きな星を背負っておられる方やもしれませぬな」
「ははは そのとおりじゃ、これで徳川家の未来は開けたかもしれぬぞ」
「はは~~そうありたいものでございます」
徳川秀忠と江姫(小督)の婚約がなり、秀忠が16歳になった文禄4年(1595)に二人の婚儀が行われた、室となった江姫は秀忠より6歳年上で、生まれた時から戦乱に巻き込まれた人生を送っただけに苦労人で肝も座っており、秀忠を教育する勢いであった、秀忠は側室の一人も持たないまま10年をすごすことになる。
秀次の性癖を知った者たちが、次々と美女を献上するようになったことを先ほど書いた。
そんな中に公家の大物、菊亭(今出川)晴季(はるすえ)が居る
右大臣にまで上り詰め、従一位の最高の公家である、その男が関白秀次に忖度して娘を差し出したのだ。
「これは」さすがの秀次もたじろいだ、「まさか、側室にはできぬ」
そう思った、しかし会って見て、たちまち彼女の色香に迷った
齢は秀次より3歳上である、三条家の公家に嫁いだが、間もなく未亡人になった、あわれに思った晴季が秀次の噂を聞いて、秀吉に持ち掛けたのである
秀吉は忙しく、いとも簡単に許したが、もし秀吉が先に会っていたなら間違いなく自分の側室にしたであろう美女であった。
嫁いだ日から、秀次は溺れてしまった、公家の娘とは思えぬ天真爛漫な性質で、秀次を翻弄した
「このような女御は初めてじゃ、夢ではないのか」
結婚生活を経験し娘を産んだ「一御台(いちのみだい)」は遊び慣れた(公家)の前夫と暮らしただけに、巧みに年下の秀次を操り夢中にさせた
宮中で育った一御台は、秀次から見ればまさに「薄絹をまとった天女が舞い降りて」のようだった。
「一御台は正室として迎える」
「なんと、正室は若政所様がおられるではありませぬか」と家老が言うと
「関白に正室が二人おったとて何の障りがあろうか、しかも若政所は一緒におらぬ、もはや他人同様じゃ、そのままにしておけばよい」
この話はたちまち秀吉の耳にも入ったが、今は秀頼に親ばかになっている秀吉は「そのようなこと、関白がきめたことじゃ、勝手にさせておけ」と取り上げなかった
さて明使の再来日予定があると聞いた秀吉は、気分を良くした
「唐国の皇帝も殊勝な男のようじゃ、ここはわしも寛大さを見せねばなるまい」そう言って、去年持たせた講和条件を大幅に緩めた新条件を書いた。
ここには、日本と明、朝鮮の戦争が終わり、両国が秀吉に服従したことを前提としている。
.朝鮮八道の内、南四道は日本領とするとしたが、朝鮮が皇子を一人送ってよこせば、そのものを儂の養子として再度朝鮮に送り、南四道の経営を任せる
朝鮮に築いたわが城も大部分を破壊することも許す
明国は我が国との勘合貿易を速やかに再開すれば、明国を独立国家として認めて自治を許す、など大幅な譲歩である
これは小西のもとに送られた、もちろん小西がこれを北京に送ることはなかった、ただし明の使節団は予定通り送るよう沈に伝えた。
その頃、逆に明の万暦帝は、秀吉に宛てての冊封状を作っていた
簡単にいえば、日本使節の内藤如安が「日本の最高権力者、豊臣秀吉は大明帝国の威に恐れて降伏する」という降伏状(小西と沈が作った偽文書)を渡したからである。
内容は、「倭国が大明国に降伏したのは賢明である、朕は大きな心をもって倭国の降伏を許し、豊臣秀吉を倭国の王に任ずる、今後は朝貢を行い、大明国に従うこと。 また倭王が望む勘合貿易はしない」ということである。
秀吉も万暦帝も互いに相手が降伏したと思っているから、寛大な気持ちになっている、ある意味、小西と沈は両国と朝鮮の救世主ともいえる
秀吉の大坂と、明の北京は数千キロの距離があり、しかも間には朝鮮国があり
そこへ行くにも海を越えていかなければならず、人の足で往復すれば半年くらいはかかるから、互いに従属させることは不可能であった
そこが小西と沈のねらい目である、こうなったのも両国の兵士の間に意味のない戦への厭戦気分があったからだ、秀吉だけがこの東アジアをかき回していると言って良いだろう
その秀吉さえも、後継ぎが誕生したことで好々爺になり、朝鮮も唐入りも興味が薄れてきている、しかし新たなる問題として秀次への風当たりが強くなりだした、老人特有の短気気質はまちがいなく始まっている。
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