昨日、プリンターインクを取り換えようと、片手にインクを持って上のプリンターを見ながら椅子に登った。
ところが足元に注意しなかったので左足を踏み外し、小指にダメージを受けた
痛かった、夜になっても軽い痛みがあり、少し腫れている感じ
骨折はないが打撲か捻挫といったところか、最近は距離感が微妙にずれる、これが歳ということなのか
自然、学問、旅、友情、読書、映画、音楽・・・
人間の心を豊かにしてくれる要素はいろいろあるが、もっとも簡単なのは音楽だ
CD、レコードをセットしてスイッチを押したら、あとは椅子に座っているだけで良い、ラジオのスイッチを入れておけばランダムで曲が流れてくる。
昭和25年(1950年)生まれの私の記憶にある最初の歌は、春日八郎の「お富さん」だ
ほぼそのあたりの時期だろう「銀座かんかん娘」「泣くな小鳩よ」「りんどう峠」「ゆうやけとんび」「弁天小僧菊之助」「野球小僧」などを覚えている
昭和30年ころ、戦争が終わってまだ10年、東京は復興の真っ最中だが、田舎は戦争前と何も変わっていなかった。
23歳の父は昭和23年に東京から一人空身で、この町にやって来た、初めて足を踏み入れた土地だった
よそ者を無条件で受け入れる会社もなく、自転車で10km、そこから標高差400mの山の集落まで歩いて魚の行商をした
ここへ来るまでは上野、浅草界隈で遊びまわり、戦争中は亀戸、品川田町、調布を生活基盤にしていた父
小学生の時は御徒町に住んでいて、悪友と二人で上野松坂屋で悪戯の限りを尽くして立ち入り禁止になった悪ガキだったそうだ
青年期は灰田勝彦似だと言われて、東京では結構モテたらしい
それが一転して繁華街もなく、娯楽といえば映画館とパチンコやだけの田舎町
どんな気持ちで暮らしていただろうか?
そんな楽しみの無い日々だが翌年結婚して、一年後に私が産まれ、借家を出て家を建てることに、たった二間の平屋だが、ますます稼ぐ必要があって趣味どころではなかった。
それでもリコーの二眼カメラを買って家族写真を撮ることから始めた
戦争が無ければ電気屋をやりたいと思っていた父は、家が貧しい故、小学校卒で働き、精密機械部品の製造工場で機械工をやり、電気通信学校で学んだ
だが戦争は運命を変えた、電気屋の夢は、その日暮らしの魚の行商人からリ・スタートとなった。
そんな過去があるから、新たな生きがいとして自分で蓄音機(手動レコードプレーヤー)を自作した
小豆色の板で囲まれた蓄音機は手動のハンドルがついている、理屈はオルゴールのようなものだ、回転が遅くなればハンドルを回してフル回転まで戻す
スピーカーは覚えていないが内臓だったと思う、なんせ私は5~6歳ころだから
どこからかレコード盤を数十枚集めていた、78回転30cmシングル盤
神戸一郎、岡晴夫、灰田勝彦、春日八郎、島倉千代子、美空ひばりなどがあった
岡晴夫の「泣くな小鳩よ」にはドリルで、もう一つ穴を開けてあって、そこを中心に入れると曲が揺れて「な~~く~うなあ~~こばとお~~よお~」なんて歪んだ曲になって、子供たちに人気があった。
この頃は日本の歌謡曲の全盛時代だった。
都会では進駐米軍の影響で、ジャズやポピュラー音楽、映画音楽も歌謡曲に負けじと流れていたのだろうが、田舎はまだまだのようだった。
ただ1枚映画音楽があったA面「シェーン」B面は「アンナ」だと覚えている
映画「シェーン」の主題曲「遥かなる山の呼び声」
ラストシーン「シェーン ケ~ムバック!」と少年が叫ぶ、その映画を見たのは高校生になってからだった。