シャイなのに人と違うことをして目立ちたい子だった
昔よく言った「疳の虫」が強い子で、透視の占い師に見てもらうと指の爪から白い糸状の物が出たと言う、それが疳の虫
終戦から7~8年、家に風呂があるのは金持ちだけで、家に水道など無く共同井戸を使っていた庶民は銭湯に通った
私も父に肩車されて両親と一緒に銭湯へ、手には1円札を握らせてもらっていた
一円札の人物が銭湯(風呂屋と言っていたが)の番台のおばあさんに似ていて、同じ人だと思っていた。
私はまだ2~3歳だったが問題児であったらしい
銭湯の女風呂の脱衣所に赤ん坊がいるとたちまち嚙みついたと言う、それが2~3度続いて、それで母の肩身がいっぺんで狭くなって、それからは父が男湯に連れていくことになった。
足で挟んでいないとすぐにどこかへ行くので父は私を挟み込んだまま、私と自分の頭を洗ったそうだ。
ある時、父が頭を洗っている時、逃げ出した、すぐに水音(湯の音)が聞こえて「(yottinパパ)さん、息子が湯船に頭から落ちたぞ」
すぐに両足をつかまれて、ひっぱりあげられたらしいが、そんな問題ばかり起こしていた。
幼稚園の時には、女の子に石をぶつけて、先生からの呼び出し状をもらって
「yottinだけ、お手紙もらった」と得意になって帰って来たそうだ、もちろん親は青くなるし、さらに女の子の親(漁師)が怒鳴り込んできて
「この子の顔に傷が残ったら責任取ってもらうからな」と脅された
責任とは、娘の顔が傷で嫁の貰い手が無ければ、おまえの家で貰ってもらうからというような意味だったらしいが、まさか本気で行商の貧しい魚屋に嫁がせる気などなかったろう、感情に任せて言った一言だったろう。
幸いにも傷は残らず、5歳の私の縁談はそこで終わった
10数年後に再会したが(別に話したわけでもなく、彼女は幼児時代の一件など知らないし、私を知らない)不良少女に育っていた。
目立つことが嫌いなナイーブでシャイな子なのに、目立ちたがり屋という矛盾した小中高校時代
自己主張したい生徒で、クラスの報道版、学級新聞などは自主的に書いていた
だけどみんなの前で話せない子だった
女の子を口説けず「うじうじ」していたくせに、なぜか女子連中に手紙を書いて渡すことは平気だった(ラブレターではなく)
卒業の時にはクラス全員に一人ずつ、お礼と想いを書いて渡したから、修業に行ってから2年間はあちこちから手紙が来て、親方家族も驚いていた
卒業して20年以上たってから、突然、東京に住む高校時代のマドンナから「卒業の時、あなたから手紙をもらったのを思い出して、みんなのことを懐かしくなって」という手紙をもらって驚いたこともある。
彼女は子供が成人したころ離婚して、傷心の日々をおくっていた頃だった
彼女とは高校時代会話した記憶が無いのだが、手紙だけは渡したのだった
内容は覚えていない。
運動は体操系が全くダメで鉄棒やマット運動の日は休みたかった、水泳、バスケもだめだった。
けれど野球と相撲、走る、飛ぶ系は得意だった、だから校内マラソン大会などは異常にテンションが上がった、好きな女の子も陸上選手で、彼女の前で良い恰好を見せたくて頑張ったものだった、だが結果はついてこなかった。
勉強は嫌いではないが、好きではなかった
学校から帰れば、カバンを放り投げて外に行き、一番星が見えるまで走り回って遊んだ、小学生の時は5月生まれだから勉強しなくても成績は良い方だった
けれど中、高では勉強する奴らにどんどん抜かれた
それでも自分は「やればできる男」と思い続けて、そのまま勉強をやらずに社会人になってしまった。
そんな飽きっぽい、努力嫌いの性格は社会人になっても続き、ゆえに70過ぎた今もこんな生活に甘んじている。
もう一度人生があったなら、同じ人生を繰り返したいか? 問う
「思ったことは何もしない、できなかった人生だった、人の手の中でやって来た人生だった、だがそのおかげでたいした苦労もせず、けっこう楽しい人生だったと思う、その結果はどうかと思い返せば、なかなか人が経験できない災いを経験したが『災い転じて福となす』人生もあるのだな」と言える
その経験で自分の人間力のサイズもわかった。
一芸には達することが出来なかった、私が進むべき道は、ほかにあったと思う
だが、それは今やない物ねだり、今の生きざまも悪くない、負け惜しみではなく、ほんとうにそう思う。
日記を書き写していると、当時の考え方や、友達との会話が出てくる
大学の哲学科に入った幼馴染で40代までつきあって行方不明になったAは、ひじょうにユニークな男で、二人でSF小説を書いては見せ合い、指人形を作って芝居をしたり、オープンリールで作詞作曲ごっこをしたり、便箋11枚の異次元小説を送ってきたり
青春、スポーツ、根性とかが嫌いで、サルトル、カミュー、カフカ、安倍公房、野坂昭如、アート系は横尾忠則、長澤節、などが好きで、音楽はクリームとかジミヘン、サイケなビートルズ
東京と新潟に別れてからも25年近く付き合いは続いた、一番の親友だったが生涯、無職無婚の風来坊、加えて酒乱の傾向も出てきて、それが原因で行方知れずになった。
その男が20歳の頃「なんでおまえは魚屋になるんだ? 本気でそう思っているのか」と言ったことがある。
日頃から自分が思っていたことだったから、衝撃的な一言だった
奴は小学生から40代までずっと私を見てきたから、私の何者かをきっとわかっていたのだろう。
今の時代なら、田舎を離れて二人で何かをやったかもしれない、そして別の人生を歩んだかもしれない。
だが人生は一度しかない、歩んだ道が自分の唯一の人生だ
昔話を思い出すのも老化の証拠、でもそれでいいじゃないか。