勘助が武田に仕えてから、晴信は昼夜問わず勘助を傍らに置いて軍法談義を重ねた。
元より武田家には武田家の軍法があったが、加えて勘助の軍法をも取り入れてこれを揉み上げて五十七ケ条の国法を作り上げ、別に軍法七十五ケ条も制定した。
ある時、勘助は晴信の一字を賜り、晴吉と名乗った
勘助はこれを大いに喜び「臣、諸国を歩き回って、その地の名士人物を見るになかなか英雄と言える士には出会うこと少なけれど、一人の英雄をお勧めいたします、この者を用い下されば、臣とはまた異なった実に良き相談相手となるでありましょう」
晴信は驚き「それはいかなる人物であるか」と問えば
勘助は「その人は上野国の浪人で真田弾正忠幸隆と申す者、彼の先祖は嵯峨天皇第六皇子恒貞親王とも滋野親王とも申し、その末葉に滋野小太郎幸氏という者、奥州磐井郡に住み、その頃、右大将源頼朝卿が幸氏の名声を聞きて御家人の列に加えられた、幸氏より二十代の後胤、海野信濃守棟綱が信州小県郡真田に住し、これより海野を改めて真田を名乗る、棟綱の子、左京太夫幸義が信州村上頼平に仕え、しばしば諫言をしたので頼平に用いられず仕えを辞めて上州箕輪に退き浪々の内に身まかられ、その子、弾正忠幸隆は若年の頃より兵学に心を委ね凡庸の者にあらず
我もし先に仕官したならば、必ず汝を推挙すると約束し、君が彼を用いると申されたなら招き寄せるので速やかに罷り越すようにと申しました」
晴信はこれを歓び「早速に甲州へ招くよう、予が重く用いよう」と勘助に命じた、勘助も歓び、旅支度を整えて上州箕輪へ旅だった。
勘助は夜を日に継いで箕輪に着き、早速幸隆に対面した
そして晴信の徳を話し、甲州へ誘った
しかし幸隆はしばし首を傾け「某、むかし足下(ごへん)と互いに心合わせて天下に名を轟かさんと言ったこともあるが、今武田家へ参ること、いささか某の好むところでは無い気がしている」と言った。
勘助は驚いて「なぜ急に、そのようなことを言うのか」と問うと
幸隆は「昔、応仁・文明の乱より足利幕府の権威は失墜し、今や日本国中戦乱の中にあり、全国に英雄豪傑が並び立ち相争っている
東国には北条早雲、今川義元、越後に上杉・長尾、中国に大内・尼子、鎮西に大友・島津が互いに隣国を伺い狙っている
足利の大樹は今や在って無しの有様、このような時に豪傑の諸侯が上洛を果たし、足利の再興を助け、天子も安んじてお暮しいただけるように取り計らえるならば、これこそが義兵であり天下人という者である
我らのように志を高く持つならば、かのような太守の器量を見定めて仕えるのが肝要である」