晴信の旗本、新手の勢で村上の横合いからどっと「横槍」を入れると、思いもつかぬ方からの攻撃に村上本隊は総崩れとなった。
いかに大軍であっても、横槍には大敗を喫するものなり。
「今ぞ、追いかけよ、首はとるな追い打ちして捨てておけよ」晴信の下知で兵は奮い立たた
されども武田の兵は少なく、乱れた村上勢であるがそれに気づかず潮が引くように我先に逃げていく
討たれた者は少ないが、深田に追い込まれて身動きできぬ者、谷間に落下して命絶えるもの、あるいは馬が倒れ味方の馬に踏み殺される者
我さきに逃げ戻る
山本勘助はそのまま、戸石城に向かって進めば、城方と交戦していた加藤駿河守、芦田、川上、勝沼らこれに力を得て、城外の城方を攻め立てる
たまらず城方はまたも城内に閉じこもった。
味方衆は「逃げる村上を追い打ちせよ」「城を攻め落とせ」と勢いに乗じて勇気百倍となる
しかし勘助は本陣に行くと晴信に「今こそ急をもって、御引きあそばせ」と言った
晴信は直ちに「引き鐘を打て、全軍すぐに甲州へ戻るぞ」と真っ先に駆けだした
最後の勝利を得たといえども、僅か一刻の勝ち、全体を見れば味方十分の負け戦、大将軍すら討たれる危うき一戦であった
味方の微勢を村上が気づいて反転すればたちまち我らは全滅の憂き目
わずか九十五名の勢をもって敵を欺き、混乱に貶めた山本勘助の謀りは前代未聞の合戦であった
この日、味方の侍大将、甘利、横田を始め戦死した者、七百二十一人なり
(*このあと山本勘助が勝利したのは占星術や易を見てだと諸書に書いてあるが、大勢の命を預かる大将が八卦や占星術にたよるなどあり得ぬ話だ
諸葛孔明が南蛮を攻めるにあたり、そうしたと漢書にあるが、それは孔明が易にかこつけて迷信を信じる者たちを誘導しただけのことである
勘助が勝利に導いたのは、あくまでも理詰めの策であり、それは七つの証拠で証明されると書き
神武天皇が高千穂の峯より東征されて大和に向かった時、日を背中に背負って勝利したことは、今度の勘助の策略にも活かされている など3頁にわたって編者は力説している)