天文十五年となり、晴信は二十六歳になった
前年に諏訪頼茂が滅び、信州降参の大将、芦田下野守、相木市郎兵衛、依路、平沢らは武田方となり、この上は村上義清を攻め滅ぼすべしと策略を巡らせた。
信州小県郡(ちいさがた)戸石と云うところがある
この城は村上義清と小笠原長持の相持ちの城で、村上より薬師寺右近の舎弟、同弥次右衛門が千三百を率い、小笠原からは長澤右兵衛大夫を大将に千人、両家合わせて二千三百が籠っている。
これらは時々、武田方の海野へ兵を出して放火などを繰り返していたから、三月上旬に戸石を落すべく軍議を重ねた。
村上、小笠原とは別に伊那谷には伊奈衆が割拠していて、村上、小笠原に同心して武田と敵対しているから、いつ彼らが後詰となって横槍を入れてくるかわからない
その為、左馬之助信繁を大将にして、穴山伊豆守、小山田左兵衛尉、小幡織部正虎盛、金森若狭守を以て、下諏訪に向け塩尻口を押さえ伊奈衆、小笠原、木曽に備えた。
また板垣駿河守を大将にして、原美濃守を添えて碓氷峠に向けた、これは上野の上杉修理大夫憲昌(憲政)が村上勢に合力するという動きが見えるからだ
そのほかにも要所要所に兵を置いたので、晴信の手勢は四千百七十人で甲館を出発した。
三月十四日には戸石に到達して、まず栗原左衛門尉に、信州の降将、芦田、相木、川上入道、平沢らに千五百を与えて城の一番攻めに向かわせた。
芦田らは今日が武田方としての初陣であるから、なんとか手柄を立てようと鉄砲を撃ちかけて追手に押し出していった
城方も落とされまいと、魯の上から石を落したり矢を射かけて抵抗した
戸石に武田勢が押し寄せたと聞いて、村上義清は七千六百余騎を引き連れて後詰に向かった
さらに信州の諸勢力が二千騎加わり、総勢凡そ一万騎となった
楽岩寺左馬助、小島五郎左衛門を先鋒として西の方より押し寄せて来た。
晴信は、その押さえとして小山田備中、息子の同名彦十郎父子と甘利備前守を向かわせ。その間に城を攻め落とす策に出た。
しかし甘利らの勢は村上の一万に対して九分の一に満たない小勢である
しかし武田の軍法、「小敵を見て侮らず、大敵を見て恐れず」という
甘利らは本陣から僅か八、九町しか離れていない場所で陣を構えた
左右の沼地と水田を小楯として西に向けて盾を押し並べて、その後ろに鉄砲を並べて、村上の後詰に備えた。
晴信の本陣は城から五町ほど、その勢は僅か二千六百余騎、幹道の真ん中に床几を置いてそこに座した。
旗本を左右に配して、後方一町に諸角豊後守が七十騎でしまり備えとなっている
この危うき事は大山に卵を投げるが如しなり、西には村上の一万騎、東には戸石城の二千三百が後詰と合体するまでの間は、何が何でも城を守ると思い、堅固に防衛を固めている。
そして西からの援軍が武田勢を押しつぶせば、その時には城門を開いて二千の城兵、一気に晴信本陣へ切り込んで大将首を上げる算段である。