力を落した上州勢はいったん本領へと引き上げた。
信形は討ち取った首帳を晴信に差し出すと、晴信は信形に恩賞を与えた。
三月二十三日、甲府に於いて村上との戦で手柄を立てた諸将に恩賞を授けた。
一番に山本勘助、三百貫を加増して都合八百貫とされた。
討死した甘利備前の嫡子玉千代十五歳を召し出し、備前守の忠義を賞して玉千代の元服をこの場でただちに申し付け、左衛門尉の位階を与えられた。
さらに烏帽子を賜り、晴信の御諱(いみな=名前)を下されて晴吉とされた
甘利左衛門尉晴吉、甘利家の家督相続を認められた。
次に、横田彦十郎を召され、討死となった忠臣横田備中守の家督相続を認めた
さらに百五十貫の加増を下された。
そして続けて言うに「汝十六歳より五度の合戦に出て、その都度手柄を立てて来た、実父原美濃守から勇を受け継ぎ、養父横田備中守から武略を倣い、武力勇気共に備わったことまことに末頼もしいと思うぞ
今日より横田織部正と名乗るがよい」と賞された
彦十郎は大いに面目を上げた。
彦十郎が織部正となったので、同じ号である小幡織部正には尾張守を与えて小幡尾張守となる。
次に小山田備中を召されて「甘利備前が討ち死にしたあとも戦場を持ちこたえたること汝の功である」と賞して感情を与えた。
続いて加藤駿河守を召されて「城攻めの芦田、川上入道が城方に敗れ沼の中に追い込まれて総崩れの時、汝は早速に駆けつけて敵を城中に追い返した
これ抜群の功である」と言って、感状に国吉の腰の物を添えて下された。
同月二十五日には、戸石合戦で敗北した諸将を召し出され、まずは栗原左衛門を召して「汝は信州の降将、芦田、川上、勝沼を添えて城攻めをさせたが、村上の後詰を見て逃げ腰になり、城兵によって追い破られる見苦しき様は、いかなることか」と問い詰めた。
栗原が言うに「謹んで申し上げます、その日の先手は川上入道で村上が西より大軍で来たのを見て狼狽し攻め口から逃げ出したところ、これを見た芦田下野守が『ここを退けば敵は勢いを得て攻めかけてくる』と言ったが、川上はこれを聞かず逃げて来たので、某は後方にあって押しとどめようとしましたが、敵はこのときすでに勢いを得て攻め寄せてきました、必死で食い止めようとしましたが味方は既に総崩れとなっていたのです」と額に汗をして答弁した。
晴信は、川上、芦田、勝沼入道を召し出して栗原左衛門と対決させた
結果、川上入道が真っ先に先陣から逃れたことが明白になり、広瀬郷左衛門に命じて、川上入道を放し討ちの成敗(せいばい=殺すこと)を申し付けた。
放し討ちとは、その場で即座に討ち取ることで、これは太刀取り(執行役)にとって名誉なことである、なぜなら武芸の達人であることを主に認められたということだからだ。
討たれる者の中には抵抗する者がたまにあるが、それさえもさせぬほどの早業で行うのが太刀取りの腕前なのだ。
その昔、先代信虎の暴虐を止めようと諫言して、無残にも切り殺された馬場、山縣、工藤、内藤の忠臣の家族はこれを恐れて、他国へ散りじりに逃げていったまま行方が知れず、名家の家督は継がれることなくそのままになっている。
晴信は、それを深く嘆き、なんとしてもこの四家の再興を成さねばならぬと思っていた。
四家の親族に継がせようといろいろ考えていたが、幸いに晴信の旗本である教来石民部少輔景政は馬場の一家であった。
馬場伊豆守虎貞の名跡を継がせるために、教来石を改めさせて馬場美濃守信房と名乗らせた。
教来石民部少輔の家は、清和天皇の後胤六代の孫、経基の孫、摂津守頼光より四代の後胤、源三位頼政の後である。
頼政の父、兵庫頭仲政が初めて馬場を号した。
家紋は十六葉の裏菊である、馬場、大国、下妻などみな頼政の末裔である。
晴信が廃れた家を興し、絶えたる家を継がせたのは皆、仁政の成せること、いと頼もしきことかな。