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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(187) 甲越 川中島血戦 14

2024年09月01日 10時01分53秒 | 甲越軍記
 越後の長尾景虎が、信州村上義清を匿い、さらに村上の旧領を武田より取り返すと、信濃に二度にわたって出陣したことは、武田に次第に追い詰められた小笠原、木曽にとっては朗報であった。
これに勇気づけられた小笠原、木曽は滅んだ諏訪家の遺臣や村上の与力、残党、伊奈に隠れ忍ぶ遺臣らを誘い、越後の長尾景虎に使者を送り
「われら兵を起こし一万余騎にて、諏訪にある武田家郡代板垣を攻めることと相成った、ついては義の心ある智勇の御大将、長尾景虎公にも信濃に御出馬いただき、武田勢を挟み撃ちにしていただきたい」と願い出た。

これを聞いた、高島城の板垣弥二郎信里は驚き、急ぎ甲府へ馬を走らせ
「小笠原、木曽、一万有余にて高島城に既に向かい、追って越後勢も進発とのこと、敵は主戦、我らは客戦なれば一度に多方面の敵と交えること不可なり、ついては至急援軍を求めるものなり」

この時、甲府館では先の戦の労をねぎらい、能を興行あって、観世大夫の道成寺を見物なされ、晴信公も自ら「田村」を舞い給うところに諏訪からの使者がやって来た
そして報せを聞くと、晴信は”かっか”と笑い、「自立もできぬ小笠原、木曽、伊奈の者ども長尾を頼み、先兵を塩尻あたりまで押し出してまずはそこに留まり、我らが峠を上るを待って、下より本隊が挟み撃ちにして数日を稼ぐ間に、越後勢川中島より下りて、我らを挟撃する策なり
なれば、彼らの浅知恵を逆手に取り、敵より先に塩尻峠を抑えて大将無き敵の先陣を攻め殺して、敵旗本の本隊を各個撃破する也」と面を投げ捨て、
「馬引け、急げ」と舞台に馬を引かせ。その場で物の具を見にまといながら
「大悲の弓に知恵の矢をはげ、一度放てば千の矢先、雨あられと降りかかって、鬼神の上に乱れ落ちればとどく矢先にかかって、敵は残らず亡びにけり」と足拍子して謡い、馬にひらりと乗り手綱を引き、「誰誰もあとに続けや、兵糧を用意せよ」と下知して馬に一鞭すれば、たちまちこの場を発って消え去る
弟、典厩信繁もすぐに続き、この場にいた諸将面々驚き、急ぎ支度をしてあとに続く
それらの諸将は、原美濃、小幡山城、小山田備中、穴山伊豆、諸角豊後、小宮山丹後、日向大和、秋山伯耆、山本勘助、真田弾正忠、芦田下野、飫富兵部少輔、三科肥前、曲淵。小山田平冶左衛門、荻原、内藤修理正、広瀬ら我一に駆けだす
そのあとから雑兵どもそれぞれの主の物具、兵糧、槍、長刀をもって走る

大将、晴信急な発進なれば、しかも馬は逸物、主は達者、これに従う者は旗本衆、春日源五郎、小幡宗七郎、金丸筑前守、今井九兵衛、三科肥前守などわずか十三騎。

兵は迅速を尊きとして、敵の動作を計り、不意に出てこれを破るを智将という
武田大膳大夫晴信は、敵の謀りを知ると同時に軍を走らせて奇計を設け、伊奈、木曽、小笠原の裏をかいて挫かんと、一騎駆けにて信州古市まで駆けに駆けた
この地に在って、味方の後勢を待っていたが追々に兵が集まり、古市にて勢を揃えて「此度は六千騎にて敵と戦う」と小幡山城、秋山伯耆、小山田備中、真田弾正忠、小宮山丹後、馬場民部少輔、芦田下野、飫富兵部少輔、草間備前を先手十二の備えと成す
原美濃、山本勘助、穴山伊豆、日向大和は脇備えとし、遊軍として伊奈、木曽、小笠原を抑えるべし
先手旗本にて、敵の三将本隊が到着する前に、敵先方を追い散らすべしと、古市を早々に立ち、翌十八日辰の刻には塩尻峠に着いた。

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