神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(197) 甲越 川中島血戦 24

2024年09月12日 10時00分21秒 | 甲越軍記
 さて、此度の三方面同時の信濃侵攻は成功して、信濃の三将はみな持ち城に引きこもった。

天文十八年四月、武田晴信は「この上は、儂が自ら発向して、松本筋の諸城を攻め落とし、小笠原長時の深志城をせめるべし、木曽筋へは南部下野守、馬場民部少輔、真田弾正忠、甘利藤蔵、内藤修理正、力を合わせて木曽左頭守義昌の御岳の城を攻めよ」と命じた。

将たちは各々準備に取り掛かったが、にわかに南部下野守の出陣が取りやめられて追放の処分となった
その趣旨を尋ねると、南部下野は武田の一類にして、諸士の尊敬重く、武辺は甘利備前、板垣駿河、小山田備中、飫富兵部少輔に次ぐ覚えの人であった
しかし、その性質は己を誇り、人の功を妬み、人の善は聞き流し、悪を聞けば心地よしの人なり。

去年五月に信州に於いて保科が持つ沼大隅守の砦を攻め落とし、沼を討ち
その妻と娘を奪い取り、大隅の娘、春路はすこぶる美色の娘であったから己の妾とした
そして昼夜なく春路を寵愛すれば、春路は父の敵に毎日屈辱の蹂躙を去れていることを悔しく思うが、女の力ではこの屈強の男に抗しえず、ただただされるがままになるしかなかった。

母とも時折相談したが、下手に手を打って二人共殺されてしまうのも無念なりと思い、人の手を借りて志を果たすしかないと思い付き
下野守の家来の中に、石井藤三郎という大胆不敵な者がいた、彼を陥れて下野守を討たせようと、石井に会うたびに流し目の情を送った
しかし無骨者の石井は少しも悟らず、むなしく日を送った。

ある時、石井に多少の不首尾があったことを、短慮の南部は大いに怒り、成敗すると太刀を持ち出したが、たまたま春路はその場にいて、これをなだめすかすと、さすがの南部も愛妾春路の言葉に免じて、石井は難を逃れた
しかし石井は役職を免じられて謹慎となったが、ある夜、石井の家の戸を叩く者あり
藤三郎は怪しんで戸を開けると、十二、三歳の少女であった
石井はますます怪しく思い仔細を聞くと、少女は声を低くして「春路さまの使いにて、これより案内しますゆえ、春路さまのお部屋に忍んでまいられますように」と伝えた
藤三郎は、なんと奇怪なと思ったが、背後について、きり戸より部屋に入ると春路は待ちわびたる態度で、酒を勧めて藤三郎を泥酔いさせて耳に口を近づけて言うには「この間、私はそなたの命を救ったが、あいかわらず殿の怒りはとけておりません、そなたの命をいかにして害するか、それを考えております
私は、それを諌めても聞く耳もたず、藤三郎さま落ち度少ないのに、気の毒と思い、今夜は殿が留守なので勇気を出して、このことをお伝えしたのでございます」と囁いた。

思慮が浅い、藤三郎はこれを聞いて「ささいなことに、これほどまで怒るとは、おのれ我を害することこそ恨みである
こうなれば立ち退いて、この恨みを晴らさんでおくものか」と血眼となれば
春路は笑いながら「立ち退き賜うといえども、殿は必ずや追っ手を出して討ち取ろうとするでありましょう、そなたがいくら武辺者であって五人、十人切っても大勢には敵いませぬ、賤しき歩卒に首取られるは、あまりの屈辱ではありませぬか」と脅すと
石井は大いにため息をつき「まことに、ごもっともな仰せなり、この上はいかにこの身を振れば良いものか」と途方にくれた顔となる。

春路は声を細めて、「しばしの間、私は殿をなだめておりますから、そなたはその間に何が何でも殿を討ち給え、討って逃げたなら追っ手はかかりますまい、その時には私もお供して逃げましょう、行く末はそなたの意のままに任せましょう」と藤三郎の胸にしなだれかかれば、その妖艶さに藤三郎は酔いも手伝い、初めて春路の心を知り、愛おしく思うのであった。








最新の画像もっと見る

コメントを投稿