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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 58

2024年04月01日 10時06分33秒 | 甲越軍記
 庵原は勘助に「わが主、義元との縁がないと決まり、某、右下に思慮を巡らすに甲陽の館、武田晴信公は専ら(もっぱら)奇才の名士を募っているとのことである、当家とは晋秦の親しみあり、旛下には豪傑の士多く、ことさら甘利備前守は忠義知謀を兼ね備えたる勇士、幸い某と交わり深い、一通の書を整えて足下を薦めようと思うので、甲府へ赴きたまえ」と勧めると、勘助も元より晴信とは主従の誓いの約をして深く示し合わせてあったから、自ら甲府へ行くつもりだったところに庵原の勧めもあって、いよいよ渡りに船と思い、思わず笑みがこぼれた
「昔、、晋の豫譲『士は知己に値うて死す』と言えり、某、貴宅に草鞋を脱いでより数月の間、恩を被り歓喜は一言で語り尽せない、今また文書を持って甲州を勧められ、足下の下意われ明白にこれを察し、まことに忠臣の所為感心いたしました、もし晴信朝臣某を受け容れられたなら志を傾けて、お仕えする所存、貴氏の御恩長く決して忘れませぬ、速やかに書を恵み賜え」と勘助が言うと、安房守も勘助の一言、己の心中を知るというに安堵の思いを成して、急ぎ書をしたためて勘助に渡した。
そして勘助は甲州目指して旅立った。

 天文十三年、晴信朝臣は二十四歳になった。
今年正月下旬軍議の内試あって。甘利備前守は謹んで申すには「諸国修業の武芸者山本勘助と申す者が今川家に至り、庵原安房守、勘助の才知を試し今川殿へ勧めたが、彼が片足短く、片目も見えずこれを嫌って召し抱えられず、もし敵国に召し抱えられた時は今川家の難儀になるは必定、庵原遠慮を巡らして某に一通の書状を渡して薦め遣わしてきたので我が家において逗留させ、この間に彼の兵法を論ずるところ、当時無双の者と見受けした次第、お召し抱え置かれて宜しいと」と勧めた。

晴信は、それを聞き入れ「予が、勘助の名を聞くのは久しい、早速ここに召し出すが良い、庵原の、墨付きがあれば尚更である」
備前守は早々に勘助を伴って、晴信の御前にまかり出た、勘助の姿は甚だ見苦しいものであるけれど、居並ぶ家中の者共、誰一人として声を出すものなく平伏していた。

晴信は昔、勘助と対面していたが、家臣の前ではあえて知らぬ顔をしていた。
勘助が対面を終えて、退席して後、晴信は家臣の面々に向かい
「皆の者、ただいま勘助に面談したが、その人物を見るに取柄無き障害多き者である、ことにあの見苦しい小男、いかに智があるとはいえ、さほどの事はあるまい、あの者を召し抱えずとも、わが家には穴山、板垣、甘利、小山田など人に優れたる者が多くいる、人物がいないにあらず、庵原の勧めがあったと言えども用いることなどあるまい」とよそよそしく言った。

これは晴信が、思慮深い名将であるがゆえの戯れである
晴信が十三歳の時に、小幡入道日浄と共に勘助に出会い、すでに主従の約束あることを隠して、家臣の面前で罵ったのは、彼ら家中の人々の眼力、智を試そうと言う心づもりがあったからだった。

すると早速に板垣駿河守が前に出て「これは御屋形様の申しようとは思えぬお言葉であります、豪傑英雄は人相で判断すべきではありませぬ
黄金の弓、珠玉の矢は美しいけれども戦の折には何の益がありましょうや
名馬とは尺高く、毛並みが美しいことではなく、足の強さは千里を駆けても倒れず、一日に五十里百里を駆け、重きものを負うても弱らぬ馬を名馬と申す
某にとって男ぶりの良さなど問題にしません、御屋形の御明智をもって彼の論をよくお聞き召されて、秀でた才があればこれを用いるようお願いいたします」とはばかり無く言った。






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