神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 164 秀吉の果てなき夢

2023年02月23日 18時24分25秒 | 貧乏太閤記
 「ルソンへ使いを出せ、スペインの提督に、『スペイン王は余に臣従せよ』と言う書状を届けるのだ」
それは高圧的な内容であった、「スペインが日本との交易を望むなら、まずは余に対して臣従を誓え、そうすれば交易を許す、だがキリシタンの布教と、パードレの来日は許さない
もし臣従しないなら、明を従属させ、朝鮮を従えた日本は大軍を持って高山国(台湾)を占領し、そこからルソンに攻め寄せるであろう」
そのように脅した、ルソン(フィリピン)を占領しているスペイン人は驚き、恐れた、いかにスペインが欧州最強であっても、ルソンに駐屯する僅かな軍隊では、とても戦続きで猛り狂っている日本の武士10万の敵ではない
仕方なく、ルソンの提督は秀吉のご機嫌取りに使者を送って時間稼ぎをした。

 豊臣家の前途はどうなるのか、それは秀吉の周りに仕える武士たちが一番よくわかる・・・が、うかつに外に漏らせば首と胴がたちまち離れてしまうだろう
だが人間の性(さが)誰かに話さないと、それがストレスとなる、自然と取り巻き同士で話すことになる。
「お拾い様も、豊臣秀頼さまとなられ五歳にしてはや二位の中納言様じゃ、太閤殿下もお歳じゃし、急いで中納言様に権威付けをしたいのであろうのう」
「殿下のことであるから、もう十年は指揮をとるであろうよ、十年たてば中納言さまも十五歳、立派に豊臣家を継がれて関白殿下になられるだろう」
「そうなれば、われらも中納言様の親衛隊として、大名になれるであろうか」
「欲を言って墓穴を掘らぬようにいたせ、此度の関白秀次さまの一件では、おおぜいご家老様がお腹を召された、一寸先は闇じゃ」
「くわばらくわばら」
「それにしても、この数年でずいぶんと殿下の取り巻きも変わった、小早川隆景さまも亡くなられて三年になるのかのお、殿下の甥御の木下秀俊さまが養子になられたので小早川家を継がれ、秀秋さまと名乗られた、だが噂によればかなりの酒乱癖だと言うぞ」
「なんと! これはまた秀次さまの二の舞にならねばよいが」
「うかつなことは言うでない」
「だが、儂は見たことがある」
「本当か」
「顔色が真っ青になって癇癪を起こす、御付きの者共は慣れたものよ」
「だが朝鮮では全軍を率いたそうじゃ」
「それはそうじゃ、殿下の姉様のお身内の三兄弟はみな非業の死を遂げて、一人として残らぬ、そうなれば次に近いお身内は、政所様のお血筋じゃ
小早川さまは政所様の兄者のお子であるからのう」
「だが、おぬしが申した通りの酒乱癖、しかもまだ16歳じゃ、此度の采配はみなご家老様たちが話し合って進めたとのことじゃ、軍議になればやはり場を仕切るのは宇喜多秀家さまであろう」
「大老衆で最前線で指揮を執られたのは宇喜多様だけであるからのう、しかも奥方は前田利家様の姫じゃ、養父が太閤殿下とくれば小早川様より一枚も二枚も上手じゃ、仁義に厚い殿様らしい」
「いや、そうでもないらしい、家中のご家老衆が二つに割れているとか」
「ほう? 聞いてみなければわからぬものよのう」
「そうなれば、これから先の時代、秀頼さまを盛り立てていくのはどなただろうか」
「それは決まっておろう、石田様、増田様、長束様など五奉行じゃ、五大老様は政務、五奉行は豊臣家の防壁じゃ」
「たしかに奉行衆は忠義者がそろうとる、じゃが残念ながら、いずれも小身の大名ばかりじゃ、やはり宇喜多様、毛利秀元様、それに上杉景勝様もさすが謙信公の甥だけあって義に厚いおかたじゃ
毛利秀元様と言えば、立花宗茂様と朝鮮で意気投合して兄弟の契りを結んだとか、どとらも勇敢な猛将だということじゃ
立花様も、秀頼さまにとって心強いお味方であろうよ」
「それに淀殿の周りには大野兄弟がついておる、それと叔父の織田長益様、織田信包様という後見もおられる」
「しかし大野治長殿と淀殿の・・・」「ばかもの! 命が惜しくないか、言って良いことと悪いことがあるぞ」
「すまぬ、忘れてくれ、儂も命が惜しい、口が滑った」
「その口を切り落とせ、命を落とすよりはましじゃ」

 医師全宗は秀吉の病に不審を感じていた、単に神経症(パセドウ氏病)であればここまで急激に痩せることはないはずだ
過去にもこうした病気は見てきた、たいていは痩せて短い年月で亡くなっている、それは大腸や胃の病である、たいていは激痛を伴うが秀吉に限って、そのような痛みは見られない、そこが?なのだ
時々寝込むのは、体力の消耗か気力の衰え、めまい、貧血である
だが、秀吉は3日と寝込むことはない、何事もなかったかのようにケロッと回復して、また人並み以上に精力的に働きだす。
そんなときは、決まって頭がさえわたる、今日もそうだった
「三成、これを見よ」
「なんでござりますか」
「陣立てじゃ」
「・・・朝鮮ですか」
「いかにも、来年には決着をつけねばならん、いよいよ唐入りじゃ、よいか今度こそ一気に北京を攻め落とす、大明国と雌雄を決するのじゃ、奴らが弱いことは此度の戦でようわかった
よいか三成、一年かけて船を作れ、2000、いや3000造れ、一気に25万の軍勢を送り込む、兵糧も南岸の城に20万石送り込め
けっして手を抜くな、秀吉の一世一代の大戦ぞ、これがうまくいけば、そなたには朝鮮の南部2道をあたえてやろうぞ、百万石の大名じゃ
そうじゃ忘れて居った、佐和山19万4千石をそなたにやろう」
「なんと、ありがたき幸せにござります」
「足りなんだら肥前の辺りにもう三郡も与えようか」
「いえ、佐和山でも過分でございます」
「そうか、欲のない奴よのう、土地は力ぞ、多いに越したことはないぞ」
「肝に銘じておきます」
「来年の遠征は宇喜多と福島を大将に命ずる、今から二人に伝えておけ、市(福島正則)の奴め、ずっと虎(加藤清正)が先陣をきっておったから面白くなかったのじゃ、これで満足するであろう」
「はは」
「明を占領したなら、秀家には朝鮮総督として支配してもらおう、そなたは朝鮮総奉行じゃ、秀家を補佐してもらう」
「なんとも壮大なことでござります」
「なあに、まだまだじゃ、天竺を占領するまでは通過点でしかないわ、天竺を占領すればオランダもスペインもみな退散じゃ、そうなればシャムからルソン、高山国までみな我がものじゃ、天竺は誰に任そうか、徳川にでも与えるか
ははっは、秀頼はいよいよ大明国の帝となるか、そうなればそなたも朝鮮二道など狭いところにおられぬぞ、紫禁城の宰相を勤めるか?」
「それはよろしゅうございます、三成、粉骨砕身でお仕え申します」
「そうじゃそうじゃ、その意気じゃ」



今年の冬を振り返る

2023年02月23日 08時49分50秒 | 季節と自然/花
散歩していても、すっかり春めいている
今年は一時「10年に一度の・・・」が発令されたが、結局15cmほどの積雪で終わった。
この冬は、降っても間もなく消えるので、「根雪」と言うものがなかった
だから今年は、ある程度記録的な少雪の冬だったということになる
そんな中でも、山間部では24時間以上の雪の中の立ち往生というのが今年も起きたから、また豪雪地域では2m、3mの積雪もあったので、全体的に見れば平年通りの冬ともいえる。
逆に言えば、海岸部が全体的に小雪傾向とはいえ、わが地域100kmほどの範囲だけ、雪国の中で特に「雪が降らない地域」であったことは間違いない。
40km先の地域は、どんどん積もっているのに、こちらは晴れと言うことも何度かあった
昨日も、今日も良い天気だ、明日は崩れるらしい、でも吹雪とかはもうないだろう、気づけば3月がそこまで来ているし、今年から復活する春祭りまでも50日ほどになった
もう桜が咲く季節が見えてきた。
さて出発するか、今日は新潟、長野、富山、どっちへ行こうかな?


空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 163 醍醐の花見

2023年02月22日 17時44分16秒 | 貧乏太閤記
 時間を春先に戻す、朝鮮の戦もひと段落ついて三月、秀吉は京都醍醐寺裏手の山に於いて、お花見を行った、後に「醍醐の花見」と呼ばれる催しである。
招かれたのは、ほとんど女性ばかりであったという、いかにも秀吉らしいが、関白秀次の正室、側室を家柄もなにも関係なく
全て打ち首にしたという秀吉に対して、諸大名や武将らの奥方たちは緊張したであろう。
 身分高い女性らは輿に乗って醍醐寺にやってきたが、その順も決められており、これが秀吉の室の序列でもあった。
一番が正室北政所、二番が淀殿、三番が京極殿、四番が織田信長の娘と言われた三の丸殿、五番目が前田利家の娘、加賀殿、その次が前田利家の奥方で加賀殿の母である「まつ」と続いた。
前田家と豊臣家の間柄は、利家、秀吉がまだ中堅武士である頃からの付き合いで、最初は秀吉が利家の足軽だったのだから、人生はわからない
今では日本一の太閤秀吉と、加賀90万石の太守、前田大納言である
秀吉の側室加賀殿は利家の娘であり、もう一人の娘は秀吉の養女となって、備前中納言宇喜多秀家の正室となっている。
 この花見では盃の順番で淀殿と京極殿が揉めたエピソードは有名である
一番は当然、北政所であったが、二番の淀殿に対して三番の京極殿からクレームがついた、この二人は従姉妹であり京極が年上である
「格式は織田家は京極家の家臣の家であるから、私の方が先に盃をいただくのが当然である」と京極殿が珍しく我を張ったのである
もちろん淀殿も「太閤殿下のお世継ぎを産んだ私が、北政所様に次ぐ立場であるのは明快である、そのため腰の席次もあなたより上なのだ」と言い返す
これを、前田利家の奥方「まつ」が年長の序列を持ち出して、やんわり丸く収めたというエピソードである。
ともあれ1300人も招いたというから、豊臣家の家老や重臣、諸大名家の重臣の奥方までも招かれたのだろう
もちろん皇女、大臣や公家の女房、大商人など名高い町人の妻も招かれたであろう
これが秀吉の最期の花道であった、もともと、こうした祭りごとが大好きだった秀吉であったが、いくさいくさが続く日々でこのような余裕はなかった。
どこで秀吉は間違ったのか、それはあきらかに「朝鮮出兵、唐入り」である
ようやく日本統一と言う大事業を成し遂げたのに、息つく暇もなく今度は海外相手の戦争へと移行したのだから、諸大名も驚いたであろう
やっと訪れた戦の無い平和な日本、勝利した大名たちはこれからの内政に不安と夢を抱えていたに違いない、それなのに・・・

 秀吉の「唐入り案」にまっさきに反対したのは弟の豊臣秀長であり、正親町上皇であった、そのような人たちの言うことさえ聞かなかった秀吉
いったい何がそうさせたのか、晩年の秀吉は豊臣家自滅の自殺行為としか言いようがない、まるで何者かの罠にはまったように思える
一番の相談相手で頼りにしていた秀長が死ぬと、その後を養子の秀保(秀次の弟)が継いだが秀次切腹の半年前に木津川でおぼれ死ぬという不審死がおこる
これによって、秀吉は大和豊臣家を廃家とした。
秀吉にとってもっとも重要な、いわば分家を自ら消し去ったのだ、そのあと甥のナンバーワン関白豊臣家をも滅ぼしてしまう
それに仕えていた家老もことごとく切腹させたが、多くはもともと豊臣家で秀吉に仕えていた重臣ばかりであった
木村や前野は、秀吉がまだ木下藤吉郎だった時からの仲間でもっとも古い家来だったのに、それも殺してしまった。
浅野長政、幸長親子は北政所の妹の夫と子である、幸長にも「秀次接近多し」という理由で切腹を命じたが、
前田利家と徳川家康、北政所の取り成しで前田家預かりの能登流罪で済まされた、だがこれも豊臣家の弱体につながった
この他にも、加藤清正、蜂須賀家政、黒田長政と言った豊臣恩顧の大名たちを謹慎や叱責処分にしている。 島津家なども家久切腹処分を申し付けられている
どういうわけか、秀吉に殺されたのは秀吉と共に豊臣家を築き上げてきた功労大名ばかりである、いったいどういうわけなのだ
徳川家康に縁する大名には、このようなキツイ処分はほとんど行われていない
それどころか疑われながらも加増された山内一豊、田中吉政、池田輝政などをはじめ、秀吉は大盤振る舞いしているのである。
そして同じ豊臣家臣でも、淀殿につながる石田三成ら五奉行は加増など優遇されている
これを見ていくと、秀吉は自分の過去につながって出世を遂げてきた者たちを記憶と共に消し去りたいと思ったのではないかと疑ってしまう。
そして気がつけば、秀吉の過去を知っている者と言えば、前田利家、加藤清正、福島正則くらいになってしまった
いつのまにか老いた秀吉は「裸の王様」であった
その外の世界では、石田三成と淀殿、徳川家康と北政所のあらたな世界が出来ようとしていたのだ、知らぬは秀吉ばかりなり
秀吉は老いた・・・

 醍醐の花見以後、まさに花冷えが続き、するとそれに合わせるように秀吉の体は病がちになって行った。
腹痛と下痢が続き、食用が失せ、もともとやせ型の体がますます痩せていった
床に就くことも多くなり、起きたり寝たりの日々が続いた
起きたときには、さすがは天下人と言う気力を見せる、声には張りがあり若々しい。 「耄碌した」などと陰口を叩く大名などは(うかつなことを言って知れれば切腹じゃ)と恐れた
だが当の秀吉は自分の体の変化が、これまでとは違うことに気づいていた
天下一の名医と言われる曲直瀬(まなせ)道三の弟子、全宗に、これまでも健康管理を任せていたがその全宗からいくつか注意事項を言われた。
全宗が見るに、どこと言って秀吉に死病は見えない、だが体が衰弱していくのが目に見えている
もともと胃下垂の傾向があるから食欲が出ないのもわかるが、現在のパセドウ氏病のような症状である。
疲れやすくなり、イラ立ちがしょっちゅう起こるようになった、手足に震えが来たかと思うと指先が反り返る、すると必ず下痢が起こる
そのようなことが起こるので体重の減少も目立ってきた、脂汗が出る、気持ちが落ち着かない
思い返せば、秀次の処刑の半年くらい前から、その症状は出ていた
その原因もストレスからだったのかもしれない、それは誰にもわかる、唐入りが思ったように進まないからだ 
最初は破竹の勢いで漢城どころか、平壌まで占領して、あと一歩で明国侵入と言うところまで行ったが
後方で立ち上がった朝鮮人義勇兵の抵抗により兵糧の運搬がままならなくなり、更に明国から援軍がやってきたため、今では朝鮮南部を守るに精一杯なのだ
 こんな状況に実は秀吉自身が、口ではいうものの実際は唐入りの熱が冷めてしまったのだ
秀頼が産まれたことで、ようやく秀吉にも平和が必要だということがわかって来た、だがそれを口に出すことはできない
結局、戦線の縮小の末に名誉ある撤退が出来れば、それでよいという気持ちになったのだ、そのため諸将の帰国が相次いでいる
 そんな最中の体調不良、秀吉自身はまさか死ぬとは思っていないが、それが近づいてきたことを感じるのであった
(もし儂が死んだら)と言う考えが出てくるこの頃、そうなると。思うのは淀と秀頼の今後のことであった。
「三成、諸大名すべてに豊臣家と秀頼への忠誠の証文を書かせよ」
太閤亡きあとに、そのような物が役立つなど秀吉も信じてはいない、だがそうしないといてもたってもいられないのだった。
それだけではなかった、まだやり残したことがある



父の法要

2023年02月22日 11時16分10秒 | 宗教
父が亡くなって今日が5年目、お寺さんに読経してもらって、今帰られたところ
読経のあと、こたつに入って1時間ほど、ゆっくり世間話をしていきました
私より20歳くらいは若いでしょうか、それだけ私が歳を取ったということです
今は真宗大谷派の寺院ですが、我が家は一代ごとに寺が変わる渡り鳥一家
転勤族でもないのに、そういった運命の一族なんでしょう
祖父祖母は墓も遺骨もなく、浅草の時宗(じしゅう)の寺で葬儀を行いました
祖祖父、祖祖母は茨城の真宗大谷派、その前は代々、栃木県の臨済宗寺院に墓があります。
私の代でようやく、この地で父からバトンタッチで2代目です。息子もこの地で3代目になるでしょう、世間で言う「安住の地」というものですかね
まだこの先、わかりませんが、この土地の自然は好きです、ただどんどん不便になって行く医療問題や娯楽施設、文化教養施設が無いのが残念です。

浅草浅草寺


空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 162  讒言の波紋

2023年02月21日 18時01分14秒 | 貧乏太閤記
 「殿下、朝鮮より使者が参りました」
秀吉は朝鮮から戻って来た福原、熊谷の二人の軍目付に会った、そして戦の概要を聞いた
「まことに危うい戦でありました、あと2日救援が遅れれば、加藤殿は敵に降参したでありましょう」
「ばかな! あの剛直な虎之助は死んでも降参などするわけがない」
「それが、そうでもありませぬ、後詰がつく前から夜に紛れて数名、十数名と敵陣に投降した者がおります、寒さとひもじさに負けた者たちと聞いております」
「それは由々しき問題じゃ、後日虎之助を詰問しよう」
「それから、こちらの書状でありますが、諸将が戦のあとで合議して決めた取り決めでございます」
「なんじゃ」
「此度の戦で、城普請も間に合わず、救援も遅かったので蔚山、梁山、順天の各城を破壊して、防御地域を縮小するという案でございます」
「なに、、これは皆の総意なのか?」
「いえ、われら二人と垣見殿の目付三人は殿下の決められたことを変えてはならぬと申しましたが、加藤殿、蜂須賀殿、黒田殿が押し切りましたのでございます、それも小西様、鍋島様の御到着をまたずに決めたのです、小西様がおられたなら、このようなことは許されなかったでしょう
「何たることだ、蜂須賀と黒田は秀次がことでも疑いがあった者どもだ、いずれも親父たちは儂と共に苦労したというに、倅どもの呆れたことよ」
怒った秀吉は、二人の奉行に命令書を持たせて、釜山に返した
「毛利秀元、小早川秀俊は帰国せよ、また蜂須賀家政には帰国して謹慎を申し付ける」
「黒田長政は梁山城を放棄して、亀浦城へ転出せよ、蔚山城は加藤清正がそのまま残り、急ぎ補強して総曲輪と堀を完成させよ、順天城は小西行長が万全の構えにして放棄することは許さぬ」と命じた。

 蜂須賀家政、黒田長政、加藤清正はたいへんな苦労をしたにもかかわらず、秀吉から叱責を受けて腹の虫がおさまらない
自分たちが、このような目に遭ったのは、名護屋に行って秀吉に面会した軍目付の二人であることを知って、殺意さえ覚えた。
福原も熊谷も、石田三成と親戚関係にある、そこに我らを貶めた原因があると考えた。
今までの秀吉は加藤や黒田の父であり主君であった、それが秀頼誕生以来まったく人が変わり、身内であれ功臣であれ疑えば殺してしまう人間になった
こうなると、疑いの目を向けられた大名の受け皿は、おのずと秀吉に次ぐ大大名、徳川家康となる。
 徳川家康は、かって小牧で5倍の軍勢の秀吉と大戦をして、五分以上にわたり合った実績がある、それは諸大名で知らぬ者がない。
ここにきて、その風格は増し、関東で250万石8万人もの軍を動かす実力者
しかも人当たりは良く、かといって他を制する圧力もある
頼ってくる者は拒まず、豊臣恩顧の大名たちも、秀吉から冷たい扱いを受けるうちに自然と家康になびく者が増えてきた。
彼らから見れば、秀吉は石田三成ら五奉行を中心の近江者で身辺を固めているとしかみえない、そしてそれは淀殿、秀頼を守るためのスタッフであった、
もはや加藤、福島、黒田など尾張時代から仕えた者たちは忘れ去られたとしか思えない
そうなると三成に対する、嫉妬や妬み心も出てくる
「困ったら、徳川様を頼りなさい」と言った北の政所も今や秀吉にとっては、存在感が薄れているようであった、政所の心も秀吉から離れ始めていた。
秀吉の家臣団が、秀吉派と政所派に割れようとしている、それを見破れぬ徳川家康や本多正信ではない、しかも秀吉の老化は誰の目にも明らかである
今でいう「認知症」の傾向も見えてきた
一日の中で1~2回、おかしなことを言いだす、だが、それ以外の時間はいつもと変わらぬ鋭いまなざしと、しっかりした口調の秀吉だから、うかつなことはできない。

 徳川家康は自分の方が秀吉より長生きすることを確信した、そうなれば次に何をするべきか自ずと見えてくる。
だが家康は急がない、40年と言う長い年月を今川、織田、豊臣の下で生きてきた男だ、待つことと耐えることが身についている
「棚からボタ餅が落ちてくるまで、口を開けてはなりませぬぞ」
「わかっておるわ、ボタ餅が腐り始めて来ておる、下手に食べると腹痛をするでのう」正信の戯言に、家康も戯言で返した。
どんな王者にも平等に死が訪れる、「まことにありがたきことよ」
信長、秀吉が消え去れば次は家康が浮かび上がるのは、間違いない
「正信よ、忙しくなるぞ、天下は勝手に転がり込んでくるから、戦のことなど若い者に任せて、我らは徳川の天下を1000年続ける段取りをするのじゃ」
「いかにも、織田家も豊臣家も後継ぎで失敗しておりまする、天下を取ったことに満足するからこうなるのです、殿はやはり名君でござる」
「おだてるではないわ正信よ、これからが本当の勝負じゃ」
ついに徳川家康に天下取りがはっきりと見えてきた、目標が定かになれば、こうした天才はぶれずに突き進むことが出来る、しかも長年かけて優れたブレーンを育てた甲斐が、いまようやく実を結ぼうとしている。
「なぜ明を奪うなどと考えたのであろうか」
「耄碌(もうろく)されたのでございましょう」
「耄碌か・・・ふふふ」

 蔚山城の戦が終結したのは慶長3年(1598)1月のことであったが、1万とも2万ともいう死者を出して大敗した明軍であったが
早くも巻き返しを図って、2月には新たな陣立てをすると続々と国境を越えて、遼東から漢城に集結した
朝鮮軍も、当然ながら軍の再編を行い明軍に合流した、水軍は李舜臣が再び軍船を補強して、海からも日本軍を脅かそうとしている
これに明国水軍も陳璘(チェンリン)提督が広東より北上して朝鮮黄海南陽湾に集結した。
ここで兵糧や装備を集め、兵の訓練などに月日を費やした、明軍にとっても、今度は絶対失敗をしてはならない、
日本軍の強さと、残虐性をいやと言うほど見せつけられた、小国と侮って大失敗したのだったから
じっくりと時間をかけて何度も有効的な作戦を探った。夏に入るころようやく策もまとまり明軍の総大将シンジェは軍団長を集めて作戦会議を行った
シンジェは大敗を喫した前回の蔚山攻を振り返り
「蔚山では数を頼んで一気に攻め落とす予定が、思いのほか加藤清正の抵抗が強く後れを取ってしまった
日本軍も終結させるとすぐに数万が集まるから、此度の作戦は敵を分散して各個撃破する作戦をとる
軍を三つに分けて、それぞれ蔚山、泗川、順天を攻撃する、こうすれば敵は分散せざるをえない、しかも日本軍は半数程度が帰国して今が手薄である
前回の勝利に酔って、我らが立ち直れぬと考えて油断したのであろう、明国の偉大さを今こそ見せてやる
第一軍は麻将軍が3万で蔚山城へ、第二軍は薫将軍が1万5千で泗川城へ、第三軍は劉将軍が2万5千で順天城を攻撃する
さらに水軍とも連携を取って海上からも攻め寄せる、こんどこそじっくり緻密な攻撃計画をたてて9月より開始する」



友を選ばば・・・

2023年02月21日 09時08分02秒 | ライフスタイル
1年前の現役時代と今では、人付き合いが変化した
当然ながら商売繋がりの付き合いは皆無になったし、銀行系のもろもろの親睦会、そこから派生した勉強会兼親睦会もなくなった。
「商売の切れ目が縁の切れ目」
同時に、必要以上の交際が多かったのも事実で、今は寂しさよりも時間や人に縛られない自由を満喫できるようになってきた。
去年は時間をどう過ごせばよいかわからず、戸惑いの連続だった
今は、時間の過ごし方もだんだんパターン化してきたし、これからのやりたいことも少しずつ見えてきた。
人付き合いも少数精鋭が良いことに気づいた、付き合う回数が多ければ、付き合う人数が多ければ」は商売向きだった。
今はどれだけの付き合いが必要なのか、家族親戚は別にしてみると
飲みたいとき付き合ってくれる仲間  旅行を楽しむ仲間 
趣味を共有できる仲間 食事とドライブに付き合ってくれる仲間
これだけで十分だし、それぞれの人数も1~5人くらいで十分
年賀状枚数、団体の飲み会、旅行、もういらない、本当に必要な人選をしていこう。
あとは家に居ながら情報交換できる全国の「ブロ友」さんがいてくれるだけで孤独になる心配はない、ありがたいことである。



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 161 勝利と不安と

2023年02月20日 17時23分05秒 | 貧乏太閤記
 「日本軍が海上から上陸を開始した」と伝令が麻貴将軍に伝えた
「しまった、敵が出そろう前に一気に城を攻め落とすぞ」数万の軍勢は城に向かって攻め込んだ、味方が上陸したことを聞いた城兵は勇気百倍になって、今まで以上の戦いをして、敵を二の丸前に釘付けにした。
城の南の山に、日本軍の旗が雲霞の如く見えてきた、これを見た朝鮮、明軍は浮足立った、
数ではこの救援軍を含めた日本軍の3倍近くも多い、けれども既にこの凍える野外で二週間近く戦を続けた朝鮮・明軍は戦死、戦傷者も多く、さらに過酷な天候の中で疲労と寒さに体力が限界に近づいている
一方、日本軍の新手1万数千は、元気いっぱいの上に、並々ならぬ闘志をたたえて蔚山城の味方を助けるという使命感に燃えている
勢いが違うのだ、それが一斉に山を下って、包囲している連合軍の中に突っ込んだ
その勢いに恐れをなした明兵・朝鮮兵はどっと崩れて軍団の体が失われた
それを見た城方は鉄砲玉のあらん限りを打ち、敵方は1000名もの死者を出して逃げ始めた、しかし城方は勝ったがもはや追いかけるだけの力がなかった。
かわりに新手の日本軍が追撃に向かった、日本と違い犠牲的な殿軍などというのは連合軍にはない、我先に逃げ出し、武器を捨てて逃走する者も少なくない
しかしやみくもに西へ逃げた兵は、川に阻まれて逃げ道を失った、そこへ追いついてきた立花宗茂、毛利秀元の騎馬武者が槍で突きまくる、おおぜいの敵がそこで死んだ、それでも生きたい者は、川に飛び込んだ
凍える流れの中で、すぐに体は凍り付き、心臓が止まった、多くの兵が川の流れに流されていった。
 川の上流へ逃げていく敵には「敵が逃げたぞ、皆のもの追いかけて打ち殺せ、もはや個人の手柄は考えるな、首も鼻も後で良い、まずは殺してしまえ」
鍋島、蜂須賀勢らがまず追い打ちをかけ、その後を毛利勢、(毛利、吉川、小早川)らが追った
逃げ遅れた明軍は次々と討たれた、先陣の騎馬隊は、逃げていく敵の騎馬武者を追った、小早川隊は敵の騎馬隊を追いこして中央から攻め込んだ
たちまち、逃げ腰の敵は討たれ、大将首だけで10個も取った
悲惨なのは敵の歩兵部隊であった、毛利勢に逃げ道を断たれ、後ろから攻め寄せる日本軍の騎馬隊、歩兵隊に一万も討たれた。
兵士の死骸は皆、鼻を削がれ、それが討ち取った敵兵の数であり戦果として名護屋の秀吉のもとに送られた
 朝鮮、明軍の大敗北であった、日本軍にも損害は出たが大将クラスはケガ人はいたものの、戦死者はいなかった、逃げる敵を追う追撃戦はしつこく数十kmも続いた、日本軍の完勝であった。
権慄、麻貴、楊鎬などはようやく慶州まで逃げてひと息ついたが、逃げ足の速い将軍は漢城まで逃げて物笑いになった。

 戦が終わり、蔚山城に次々と大将たちが戻って来た、城下に置き去りにされたおびただしい数千もの敵兵の死骸は、日本兵が川まで運んでは投げ捨てた
首を斬られた敵の大将、武将級の遺骸だけは山中に穴を掘って埋めた。
そして川に投げ込まれた兵士たちの供養塚も隣に建てて、軍僧が弔いの経を詠んだ。
 翌日、再び大将が集まって軍議を開いた、総大将の毛利秀元が議長となり、今度の戦の反省と、今後の防衛方法について話し合われた
加藤清正が「蔚山城が7分しか完成せぬうちに大軍に包囲されて、このような苦労をしたので急ぎ完成させることが必要である、また十重二十重に包囲されて、救援の使者もままならなかった」と言うと、それについて意見が出た
「蔚山城ばかりではない、個々の他にも築城中の城はいくつかある、それも同じことになるやもしれぬ、今回は敵がそれを狙って攻め寄せたと思われる」
「蔚山から全羅道の木浦(モッポ)まではおよそ80里(320km)もあり、そこに10万が展開しても一城あたりの兵は知れている、そこに敵が数万で攻撃してくれば、今回の繰り返しだ」
「いかがかな、蔚山など辺地にある城は破壊して、できるだけ密集した方が良いのではあるまいか、後詰するにも近い程、たやすい」
「そうじゃのう、海に沿て50里ほどであれば、海からの救援も容易だし。内陸部にも10里20里程度なら、どこからでも救援にすぐ間に合う」
西生浦は海路の拠点でもあるから必要だが、蔚山は前に出すぎておる、僅か3里半ほどの間に二城は兵を分割するだけで無駄じゃ、これを破壊して西生浦を最前線としてより多くの兵を駐屯させてはどうじゃ」
「うむ、それが良いかもしれぬ、他にもそのような位置関係のところがあれば、それも二つを一つにした方が良い」
「その通りじゃ、早速洗い出してみよう」こうして諸将は、三つの城を廃棄することの許可をもらうため、名護屋に伝令を渡らせた。
 
 自分の家来たちは朝鮮で激しい戦を続けているが、秀吉自身は戦場の生々しさは、徳川家康、織田信雄と直接戦った小牧山の戦以後味わっていない。
あれからもう14年の年月が経ったのだ、秀吉はいわばその時から社長職を辞して代表権がある会長に一歩下がったと言える。
あれ以来、九州、小田原と戦場へは行ったが、小田原などは側室や芸人を連れて行くなど物見遊山気分で、とても血なまぐさい戦場ではない。
このように生の戦場を離れても、戦場で命がけで働く自分の夢を見る
秀吉は近頃、眠りが浅い、そのため昼となく朝となく夢を見ることが多くなった。
 戦場の夢は、いつも信長の下で命がけで働いている、具体的にどの戦と言うのではないが、常に信長の影が見えているのだ。
「儂がいれば、お屋形様を討たせなんだに」歯噛みする自分がいる
ある時の夢は信長を前にして「お屋形様、どうか儂に何でも命じてくだされ、儂はお屋形様に喜んでもらいたいのじゃ」と涙ながらに懇願している。
信長は「藤吉郎、われは・・・」とだけ言うと姿を消す
夢の中の秀吉はいつでも走り回っている、最初はこわごわゆっくり走るが、少しも息が切れない、全力を出して走ると体が軽い軽い、若さがみなぎっている
 だが時々、秀次がやってくる、秀次の周りには有象無象の人影が数十人従っている、顔はわからないが、感覚的には秀吉が討ち果たした光秀や勝家、浅井長政などのようにも思える
秀次も誰も何も言わず、ただ恨めしそうに秀吉を見つめている
「なんじゃ、なんだと言うのだ、そんな顔で睨もうと少しも怖くはないぞ」
秀吉だけが焦り、叫び続ける、そして喉が渇いて目が覚める
こんな夢を最近は何度か見た。





久しぶりの海鮮丼 作ってみた

2023年02月20日 08時00分45秒 | 料理を作る・食べる
 この頃の生活パターンの一つに、おかず作りと、買い出しが加わって来た
ようやく一年たって、料理人魂が蘇って来た、いろんな調味料やスパイスを揃えて、肉、魚、卵など使い分けている、なんか急に生魚が食べたくなった
海鮮丼も巷では普通に2000円、ちょっと豪華になると2500円、3000円が当たり前になった。
自分自身、何十年も海鮮丼や、刺身を販売してきたから、そこらの店で食べるのはちょっと抵抗がある
スーパーで、新鮮な素材を見極めて7種類くらい買ってきて「マイ海鮮丼」久しぶりに作った、包丁だけはプロ仕様で何種類もある
だが、原価仕入れが無くなった今は、今の我が家には贅沢品だ
スーパーでは、マグロなどじっくり品定めしている客はあまりいないが、同じ買うなら筋が無く、色がよく、水気の無いのを選ばなくては
じっくり比べて見ている「変な客」に見えたかも
マグロも、スーパーでは「びん長マグロ」「めばちマグロ」「養殖の中トロ」なんかが「さく」で売っていたが、ねらい目は「めばちの赤身」
これは一切、水が出ないねっとりした味わい、色は濃い赤が密度があって美味い、「びん長」は安いが、やはり色は薄く、水も出て、味もたんぱく
中トロは、住民税が下がらないと、今は無理だな。
「さく」を買って、家で切った方が遥かに鮮度よく、おいしいから
家では、薄焼き卵を作って刻み、海苔をちりばめて、その上に並べていく
家庭向きだから、盛り付けも荒っぽいが、味はバッチリ
一人前700円でできたから、お店で食べる三分の一以下で出来た
醤油はもちろん富山県新川郡や黒部の甘口醤油で
刺身や海鮮丼、贅沢だが、月一程度は食べたいな、
毎日2人前くらい、切れ端の刺身を食べていたのだから、普通の人の数十倍は食べているはず、ずいぶん生活と言うのは変わるもんだ。
逆に言えば「食べたいなあ」と思った時に食べる方が、幸せ感があるのかもしれない。

完成した海鮮丼 厚切りが美味い




空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 160 日本軍後退

2023年02月19日 18時58分21秒 | 貧乏太閤記
 陸上部隊は有利のまま水原の目と鼻の先まで、攻め寄せていたが全州で秀吉からの使者である奉行を交えて軍議を開いた。
奉行が命令書を読み上げた、「前線にある部隊は、別紙の配置書のとおり任地に向かうこと。 
任地では在地の賊の集団(義兵組織)が組織されぬよう、在民に褒美を取らせて、山に隠れている両班、役人、軍人の情報を得よ、それらをことごとく切り捨てること、それらの家族も家来もことごとく殺すこと。
一般の朝鮮農民や市民は労働力として大事に扱い、危害を加えるわが兵士がいたら捕えて、厳しく罰すること
在地農民は収穫に励むよう申し渡し、日本国内同様に年貢を収めさせること」などという内容であった。 
日本軍は大名ごとに割り当てられた任地を目指して南下していった、その任地は全て、全羅道であった。
秀吉は、文禄の進軍で多くの兵が、病と寒さと飢えで死んだことを踏まえて、秋口になった今、軍を南部の全羅道、慶州以南の慶尚道にまで南下させて、そこで冬をやり過ごす作戦にしたのだった。
 そのため、南部各地に倭城の建設や改修、防御固めを命じた、今度の遠征は朝鮮全土侵略よりも、確実な占領地の足固めを重視したのだった。
秋口から年明けにかけての日本軍の仕事と言えば、すべて城普請であった、朝鮮人も駆り出されたが、日本の徴兵された農民や足軽まで過酷な労働を強いられて各地で城が築かれ、補強されていった。

「どうやら日本軍は全州にはすでにいないのではないか」、漢城の明国軍の司令官は偵察兵を送った
「日本軍はもぬけの殻で、羅州周辺から南部一帯に城を構えて籠城しています」と返事が戻って来た。
「そうか、冬に備えて戦線を凝縮したのだな、それならば慶州方面も同様であろう」と、こちらにも偵察を出すと
「星州に、多少の兵が籠り、その先の尉山城は未だ建設中です」という報告だった。
「よし、まずは星州を奪い返すのだ」
わずか数百の城兵しかいない星州城は、たちまち陥落して守備兵は戦死、蔚山方面への撤退、あるいは投降して捕虜になった
その勢いで朝鮮、明国の連合軍は蔚山城を目指した
星州(ソンジュ)から蔚山(ウルサン)までは約100km少々、数日後には大軍が押し寄せてくる
「急げ、急いで総構えの竹垣を作れ、穴を掘れ、土手を築け」突貫工事をしていたが、蔚山の防御態勢は整っていない、食糧備蓄も僅かである今攻め寄せられては万事休すである
「おお、殿様が参られたぞ、みな元気を出して励め!」
加藤清正が西生浦城から一隊を率いて海上からやって来た。 12月22日朝鮮軍が先陣を切って攻め寄せてきた、城外で加藤軍の中隊が迎え撃ったが、あっという間に突き崩されて三の丸に逃げ込んできた。

城方は工事中のこともあり1万の兵がいたが、攻め寄せる側は朝鮮軍1万有余、明軍5万にも及び、朝鮮の将軍は都元帥権慄、明の大将は麻貴(マーグィ)である、権慄は今までも何度も日本軍と戦った、朝鮮陸軍の名将である
 
戦うたびに、日本軍の兵士は減っていく、捕虜になる者も出ている
急な朝鮮、明軍の到着で、兵糧も水も貯えが少なかった、早くも兵糧、水が切れて、更に朝鮮の凍える冬が始まったので寒さもまた敵であった。
「とてもこのありさまでは抵抗もこれまでじゃ、いっそ押し出して血路を開き、西生浦まで撤退するか」
大将の加藤清正さえ弱気になるほど、この状況は酷かった
籠城して五日目からは、みぞれや霰が激しく降って、鉄砲も使えない
明・朝鮮軍は、城内の様子を捕虜から聞いているので、あえて攻め寄せず兵糧攻めの包囲に変えた。
だが「近くの日本軍が救援に動き出すようです」という情報が明軍に入ってくると、逆包囲の恐れが出てきた
「敵の後詰が来る前に開城させよう」と言うことになった
白旗を持った丸腰の兵が二の丸門に近づいてきた
「城中の皆様方、これまでででござる、投降なされよ、されば食い物も水も与えると明の将軍は申しております」と日本語で言った
「なんだ、あれは味方ではないか」「おお、日本人だ・・・まてまて、あれは岡本ではないか、捕虜になったのか」
まさに、数日前に行方不明になった、味方の侍であった
「明日の昼までに返事をせよとのことでござる、もはや戦い続けるのは無理でござる、どうか投降なされよ」
「腰抜けが!」城中から鉄砲の音が鳴り響き、命中はしなかったが弾丸が使者の近くをかすめた、慌てて使者の岡本らは朝鮮陣に引き返した。
「殿、どうなされますか」重臣が清正に問うた
「・・・」清正も今までの元気が失われている、何よりも寒い、寒すぎる
日本の雪の寒さではない、切り裂くような、突き刺すような凍える寒さである、空気は乾燥していて、吹く風が手を凍えさせ、刀をも自由に操れない
鉄砲玉を込めることも難しい、それが氷雨になるともはや指は凍傷になりかけ、わらじの足指は感覚がない。
もともと年じゅう温かい九州武士ばかりだ、寒さに慣れている奥羽・北陸の武士の比ではない
しかも飲まず食わずで4~5日が過ぎている、馬も食った、かって豊臣秀吉が鳥取城などで敵を干殺しにしたやり方で、今は日本軍がやられている
加藤清正も、そのときには参戦していて、骨と皮だけで出てきた敵の惨状を見ている、(儂らも、あのようになってしまうのか)

 蔚山から海岸沿い15km南下すると西生浦、さらに海岸に沿って下ること30kmで釜山に着く、蔚山から35km南西に梁山、釜山までは40km 梁山から更に南西に20kmで金海、それぞれに大名の軍団が駐屯している
その諸将がただならぬ蔚山の様子を認識するのに5日かかった、直ちに諸将は連絡を取り合って兵を持ち寄って救援に向かうことが決まった
総大将は毛利秀元として毛利軍のうち3500を率いた、そのほか黒田、蜂須賀、鍋島など十いくつかの大名が、総勢1万数千の救援部隊を編成した
「我らは、急ぎ蔚山に向かうが、間に合い次第巨済島以西の軍にも第二次の後詰を願いたい」と伝令を走らせた。

 「味方は必ず救援に来るであろう降参はせぬ、城も明け渡さぬ、だが降参するふりをして返事を伸ばして時を稼ごう」清正はそう言った
海から逃げる手もあるが、海岸方面までびっしり包囲されて、船も抑えられてしまった。
包囲から一週間がたった、加藤清正が時間稼ぎをしていることにようやく気付いた明軍は、朝鮮軍を先陣に総攻めを開始した
三の丸はたちまち打ち破られて、50、100と加藤軍兵士が打ち取られた、そして二の丸に籠ると、鉄砲を撃ちかけて激しく抵抗した。
攻め寄せる朝鮮、明軍は攻めあぐねた
「今ぞ門を開けよ、打って出るぞ」一斉に押し出すと、朝鮮軍の中に切り込んで、敵を三の丸から追い払い、また二の丸に籠った
朝鮮軍は数百の死者を出して城外に逃げた、しかし、その後も何度も攻め寄せたがどうしても二の丸破ることが出来なかった。
12月の26日過ぎから、西生浦城に救援部隊が集まり始めて軍議を開いた、年が明けた2日にはあらかた出そろい、いよいよ蔚山に出撃した

                     朝鮮の騎馬隊



新潟アルビレックス 5年ぶりのトップリーグは出足上々

2023年02月19日 08時51分54秒 | サッカー J1 J2
 新潟アルビが予想以上の試合を展開した
開始直後から、J1常連のような落ち着いたパス回し、そのあとはスピードに乗った走りから、J2優勝時の早いワンタッチパスで大阪陣内に切り込む
大阪は新潟を舐めていたのか動きが鈍い、何度も新潟に攻め込まれて戸惑う
そして22分、FW谷口がMF伊藤からのパスを豪快にシュートして先制点を決めた、谷口はJ1初ゴールでJ3岩手、熊本時代、J2、J1すべてでゴールを決めた。
Wカップで日本がスペイン、ドイツから得点した記憶がよみがえった
しかし敵もさるもの、26分には同点に追いつき、前半1-1で折り返す
後半は実力を出してきた大阪に押され気味になるがこらえる
しかし後半の先制点は終盤に大阪が・・・ついに逆転される
残り時間は10分台、しかも押され気味「もうだめだ、追加点を取られるシーンは見たくない」テレビを消そうとリモコンをもったが
「まてまて、ラジオがわりにつけておくか」
すると直後に、伊藤のコーナーキックに合わせて、ベテランDF千葉がヘッドで同点弾、なんということだ土壇場で強豪大阪に追いついた
残り5分は互いにビッグチャンスがあったが得点なくドロー
新潟にとっては、前期J1 5位の大阪と互角に戦ったという自信がついただろう
J2で低迷していた2~5年前のシーンと比べると、まったく別のチームだ
パス回しが遅く、ゆっくりと歩いて敵陣に向かい、下手なパスを奪われてカウンターパンチ ゴール前でも個人技が無いのに短いパスを繰り返して奪われる、何度「うて! うて! あ~~」を繰り返したことか
選手も「ぜったい勝つ」というファイトも情熱もなかった、あのままではJ3落ちも頭をよぎった
最初のJ2時代でも、J1トップクラスの3万人の大観衆を集めたアルビだったが
一回目の昇格から落ちてくると、観客も1万前後まで減った
去年の昇格がかかった試合、優勝が懸かった試合ではようやく25000を超えた
昨日の試合は大都市大阪にもかかわらず17000人
新潟ビッグスワン開幕戦はおそらく、新潟の応援、観客だけでも25000は入るだろう
スポーツ後進県新潟であっても、決して県民はスポーツが嫌いなわけではないということを証明してほしいね
今年に入って、新潟県の長距離走選手の区間一位という実績が、相次いでいる
サッカーも新潟旋風を起こしてもらいたい
とにかく北信越五県のなかで唯一のJ1チーム、北信越のためにも頑張れ!
エース本間至恩がベルギーに移籍して、今年の私の期待はMF伊藤、MF水戸
これに得点に絡む、高木、堀米、高、谷口、小見、藤原に期待
去年からはゴール前で迷いのない早いカウンターシュートが決まっている

 DF トーマス・デンが昨日は交代出場で良いプレーを見せてくれた、期待できそうだ
GK小島も2点取られたが、ファインセーブを見せてくれた、今年は一桁順位が期待できそうだ。
最期にもう一つ、新潟の武器は去年終盤から身についた、相手ボールを奪う技術、これはJ1でも屈指だ、昨日も大阪ボールを何度も奪った
パスカットと競り合って奪う二つの技術を持つが、何といっても球際をひつこう粘って奪うのがうまい、これも見どころだ。