予定では「車体仕上げ2」になる予定でしたが、またまた深みにはまってしまいカメ進行となりました。
「ベンチレーター大きすぎ問題」は、せっかく2袋も買ってしまった手前、使わないのはもったいないので、IMONのBD3005番のハーフガーランドベンチレーターを取り付けました。屋根には予め取付ボスに合わせた?四角い穴が開けられていたので、そこへ差し込んでは瞬着を流す・・・という流れ作業であっという間に完了しました。
深みにはまったのはテールライト。まあ時代的に円板付きの引っ掛け式はマストだろうなぁと読み、とりあえずアルモデルのC3011番「円板付テールライト」を購入。お手軽には点灯させないダミーとして下半色で塗り込めた後に、レンズ部分をチョイと赤く塗ればオッケー!なのですが、欲が出て点灯させようとか、実際のところ円板は使われてたのか?とか考えだしたら大変なことになりました。写真は令和の現代でも(パフォーマンスと思いますが)円板を使っていた小湊鉄道。
(折返し運行に際し、上側に折り畳まれていた後部標識灯の円板が展開されたキハ200形<2023年3月4日,小湊鉄道上総中野駅にて>)
で、一番ラクなのは「円板は着いているが使われていない(折り畳まれている)」状態です。でないと前後進するたびにパタパタ変えないといけません。。
円板は(どれだけ効果があったかは別として)、停止した列車があった場合に後方からの視認性を高めて追突を防止するために取り付けられていたとされます。それが、国鉄の場合は1965(昭和40)年度末までに全国的なATSの設置が完了することを見越して、1965(昭和40)年7月15日に改定された運転取扱基準規程で円板の使用規定が廃止されたとされます。(客車倶楽部過去ログ集より)
一方、キハ07が使われたのは甲府以遠の電化までのはずなので、1964(昭和39)年8月23日の甲府~上諏訪間の電化までと考えられます。実際の切り替えはダイヤ改正のタイミングだとしても、同年10月1日のダイヤ改正(東海道新幹線開業開業!)であれば昭和40年より前となり、規程に則ってしっかり円板は使われていたことになります。
ということで、進行方向に合わせてパタパタやるか、進行方向を固定するかの2択となります。まあ・・・無難なのは当然後者でしょう。。
進行前側用は円板を上に折り畳んだ状態を再現するため、下半分をゴリゴリ削りました。また、点灯化するためにφ1.0の穴を開けて光ファイバーを通します。円板の内側には灯具本体があるので削るのはこれが限界。。試作のつもりで作ってみましたが、イケそうなのでもう1個作ることにします。
正面から見るとこんな感じ。ちなみに後部用は円板そのままで光ファイバーを通すだけになります。
光ファイバーはもっと短くして、透明プラランナーを流用した導光材からの光を受けるようにする算段。
ということでテールライトの件は一件落着したのですが、キハ07の退役時期というか、甲府~韮崎間の気動車による運転時期について大変興味深い情報が得られました。要約すると次の2点です。
1)キハ07退役後、キハ25が1年程度リリーフ役を務めた
2)甲府~上諏訪電化後も気動車による運転はしばらく続けられたらしい
1)ですが、きはゆに資料室様の車歴表によれば、甲府機関区に在籍していたキハ07 3両(4、5、8)のうち、4と5は電化を待たずに1963(昭和38)年度中に転出し、8のみが1964(昭和39)年度まで在籍していたとされています。
検査期限の関係か、状態が悪かったのか分かりませんが、代わりにキハ25(72~74)が転入し、1年ないし2年だけ在籍してリリーフ役を務めたようです。電化直前の1964年5月4日に甲府で撮影された写真がありました。
そして興味深いのが2)です。てっきり電化直後の1964(昭和39)年10月1日ダイヤ改正で電車に置き換わったと思っていたところ、その後の10月25日に甲府駅2番線でヘッドライトを煌々と輝かせた韮崎行きと思われるキハ25の2連が撮影されていたのです。72と73番は1965年度まで在籍したようなので、1年後の1965(昭和40)年10月1日改正まで気動車運転が続けられたのかも知れません。総括制御ができる液体式気動車はさぞ喜ばれたことでしょう。
以上、円板の使用停止とほぼ同時期に終焉を迎えた甲府のキハ07・・・というお話でした。
「ベンチレーター大きすぎ問題」は、せっかく2袋も買ってしまった手前、使わないのはもったいないので、IMONのBD3005番のハーフガーランドベンチレーターを取り付けました。屋根には予め取付ボスに合わせた?四角い穴が開けられていたので、そこへ差し込んでは瞬着を流す・・・という流れ作業であっという間に完了しました。
深みにはまったのはテールライト。まあ時代的に円板付きの引っ掛け式はマストだろうなぁと読み、とりあえずアルモデルのC3011番「円板付テールライト」を購入。お手軽には点灯させないダミーとして下半色で塗り込めた後に、レンズ部分をチョイと赤く塗ればオッケー!なのですが、欲が出て点灯させようとか、実際のところ円板は使われてたのか?とか考えだしたら大変なことになりました。写真は令和の現代でも(パフォーマンスと思いますが)円板を使っていた小湊鉄道。
(折返し運行に際し、上側に折り畳まれていた後部標識灯の円板が展開されたキハ200形<2023年3月4日,小湊鉄道上総中野駅にて>)
で、一番ラクなのは「円板は着いているが使われていない(折り畳まれている)」状態です。でないと前後進するたびにパタパタ変えないといけません。。
円板は(どれだけ効果があったかは別として)、停止した列車があった場合に後方からの視認性を高めて追突を防止するために取り付けられていたとされます。それが、国鉄の場合は1965(昭和40)年度末までに全国的なATSの設置が完了することを見越して、1965(昭和40)年7月15日に改定された運転取扱基準規程で円板の使用規定が廃止されたとされます。(客車倶楽部過去ログ集より)
一方、キハ07が使われたのは甲府以遠の電化までのはずなので、1964(昭和39)年8月23日の甲府~上諏訪間の電化までと考えられます。実際の切り替えはダイヤ改正のタイミングだとしても、同年10月1日のダイヤ改正(東海道新幹線開業開業!)であれば昭和40年より前となり、規程に則ってしっかり円板は使われていたことになります。
ということで、進行方向に合わせてパタパタやるか、進行方向を固定するかの2択となります。まあ・・・無難なのは当然後者でしょう。。
進行前側用は円板を上に折り畳んだ状態を再現するため、下半分をゴリゴリ削りました。また、点灯化するためにφ1.0の穴を開けて光ファイバーを通します。円板の内側には灯具本体があるので削るのはこれが限界。。試作のつもりで作ってみましたが、イケそうなのでもう1個作ることにします。
正面から見るとこんな感じ。ちなみに後部用は円板そのままで光ファイバーを通すだけになります。
光ファイバーはもっと短くして、透明プラランナーを流用した導光材からの光を受けるようにする算段。
ということでテールライトの件は一件落着したのですが、キハ07の退役時期というか、甲府~韮崎間の気動車による運転時期について大変興味深い情報が得られました。要約すると次の2点です。
1)キハ07退役後、キハ25が1年程度リリーフ役を務めた
2)甲府~上諏訪電化後も気動車による運転はしばらく続けられたらしい
1)ですが、きはゆに資料室様の車歴表によれば、甲府機関区に在籍していたキハ07 3両(4、5、8)のうち、4と5は電化を待たずに1963(昭和38)年度中に転出し、8のみが1964(昭和39)年度まで在籍していたとされています。
検査期限の関係か、状態が悪かったのか分かりませんが、代わりにキハ25(72~74)が転入し、1年ないし2年だけ在籍してリリーフ役を務めたようです。電化直前の1964年5月4日に甲府で撮影された写真がありました。
そして興味深いのが2)です。てっきり電化直後の1964(昭和39)年10月1日ダイヤ改正で電車に置き換わったと思っていたところ、その後の10月25日に甲府駅2番線でヘッドライトを煌々と輝かせた韮崎行きと思われるキハ25の2連が撮影されていたのです。72と73番は1965年度まで在籍したようなので、1年後の1965(昭和40)年10月1日改正まで気動車運転が続けられたのかも知れません。総括制御ができる液体式気動車はさぞ喜ばれたことでしょう。
以上、円板の使用停止とほぼ同時期に終焉を迎えた甲府のキハ07・・・というお話でした。
確かに今までの市販のモケーはどうなってたのか、改めて気になりますね。。
エンドウの古いキハ10系などを想像するとワッシャーのような円板が貼ってある姿がまぶたに浮かぶので、前後進関係なく円板が広がった状態(本来なら後部)で一律固定だったのではないでしょうか。
客車の場合は後部になる以外は、機関車と向き合うか中間に挟まるかで目立たないので、広がった状態でも問題ないのかも知れません。
あと余談ですが電車には円板ついてないのナゼ?という、また沼にハマりそうな疑問もあったりしますが。。。笑
モケーでそこまで考慮した事例も聞いたことありませんでしたから。