おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
最近続けてブッダの最後の旅に関する本を読みました。
『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 』(中村元訳、岩波文庫)とその解説書の『パリニッバーナ―終わりからの始まり 』(下田正弘著、NHK出版)です。
ブッダの死期が迫った時期を描いた経である『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 』では、ブッダが従者のアーナンダにこんなふうに語る部分があります。
アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は80となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法(注:ブッダの教えのこと)をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
そして最後に次の言葉を残してこの世を去ります。
さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい。
さらに続いて『パリニッバーナ―終わりからの始まり 』を読むと、 概要下記のことが印象に残りました。
1.インドの古い言語であるパーリ語で書かれた「マハーパリニッバーナスッタンタ(大パリニッバーナ経)」は、分解すると、次の意味になります。この点は、インドのニューデリー大学に留学経験のある東大教授の著者らしいところです。
マハー(大いなる)+パリ(完全な)+ニッバーナ(涅槃)+スッタンタ(経)
2.ブッダの最後の旅の経路をたどると、ひたすらブッダの誕生の地であるルンビニーに向かっていた(最期の地はクシナーラー)。
3.「『パリニッバーナ』の存在によって釈尊という<うつしみの仏>から教えという<言葉としての仏>への移りゆきとして全体として一貫されている構成」であることを見直したとき、「『パリニッバーナ』は<入滅の事実>を語るものであるというより、その様態や位相を変じつつ存在し続ける<仏>のありようと、それを中心として現存する仏教の歴史的意義を明かす役割を果たしていることが分かります。その点でまるで逆説のようですが、この経典は<仏入滅>の経ではなく、<仏存在>の経なのです」と説く著者の主張が伝わってきます。
ところで、『パリニッバーナ―終わりからの始まり 』の著者である下田正弘氏。お嬢さんが息子と小学校時代の同級生。
同じ小学校の保護者として一緒にお酒を飲んだことがあります。
偉ぶったところがない東大教授(当時は助教授)でした。
◎もし、どちらかをお読みになるつもりがあるならば、両方セットで読んだ方が理解が進みます。
<お目休めコーナー> 我が家の庭で①
