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アドラー心理学による勇気づけ一筋40年 「勇気の伝道師」   ヒューマン・ギルド岩井俊憲の公式ブログ



おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

インターネットでアドラーの次女のアレクサンドラ・アドラーの記事(英文)を見つけました。

ヘンドリカ・ヴァンデ・ケンプという人の文章で、アレクサンドラ・アドラーのことが詳しく書かれていました。

弟のクルトのことを含めて何回かに分けてお伝えします。

まずは、箇条書きでアレクサンドラ・アドラー伝の初めの部分を

1.アレクサンドラ・アドラーは、1901年9月24日にウィーンで4人きょうだいの第二子(次女)として生まれた。父はアルフレッド・アドラー、母はライサ・ティモフェービナ・アドラー。

2.アレクサンドラは、1904年10月17日、ドロシーガッセのプロテスタント教会で父アルフレッド、姉ヴァレンティーナと共に洗礼を受けた。ただし、弟のクルトによれば、「アレクサンドラは無心論者だった」と述べている。

3.10歳の時(1914年)、他のきょうだいと共に母に連れられ、第一次世界大戦直後のロシアに旅行中捕えられた。1916年から18年まで父のアルフレッドが軍医として従軍していたため、父子は、離れて生活することが多かった。

4.アレクサンドラは、幼いころから父と母の葛藤を目撃していた。
(1)父は商人の家系の出身、それに対して母はロシアのインテリ層の出身で、当時のロシアでは女性が大学に行けなかったため、動物学・生物学の研究のためにチューリッヒを経てウィーンにやって来た人
(2)父は「個人心理学」の普及にまい進、母はラディカルな政治思想の持ち主(トロツキーの友人)。第一次世界大戦時は、2人の祖国は敵同士になり、父母はそれぞれの故国に思いを馳せていた。

5.アレクサンドラは、1926年ウィーン大学医学部を卒業(精神医学専攻)し、医師に。卒業後は、ウィーン精神神経病院でインターンを終え、その後、そこで女性のための神経部門を指揮する立場に。

5.彼女は、オーストリアとアメリカで神経学を専門とする最初の女性の1人になった。

6.1934年からウィーン児童相談センターでファシストのドルフィス首相によってこのセンターが閉じられるまで働いた。


◎アドラーこぼれ話

『無意識の発見 下』(アンリ・エレンベルガー著、弘文堂)をもとに、アドラーの知られざるエピソードをお伝えします。

1.アドラーは、1904年に2人の娘と共に(ユダヤ教から)プロテスタントに改宗したのですが、彼の伝記作家のフィリス・ボトムによれば、彼はユダヤ教が一民族だけのものであることに不満で、「人類の普遍的信仰と共通の神を信じ」たいと思ったからだと言っています。

(岩井コメント)これは、イスラム教徒がキリスト教徒に改宗したような大変な出来事だとも見受けられますが、アドラー自身、そんなに熱心なユダヤ教徒でなかったようです。プロテスタントになってからのアドラーも同様に熱心ではありませんでした。ただ、牧師との文通などは残されています。

2.アドラーの友人のフルトミューラーによれば、ライサは極度に自主性を持った意志の強い女性で、2人の関係は、最初のうちは限りなく幸福だったものの、やがていろいろと難しいことが起こってきました。
フィリス・ボトムは、このことについて次のような名文句を残しています。
「女性の解放のために闘うことと、自ら解放された女性と一緒に暮らすこととは、全く別の2つのこと」

コメント不要ですね。

無意識の発見 下 -力動精神医学発達史
アンリ・エレンベルガー
弘文堂


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