ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
今日(2月8日)は、トクヤマの徳山コースで新任管理者を対象とした「カウンセリング・マインド研修」の2日目を担当しました。
講座をしながら「本当にトクヤマの人たちはいいな」と、研修での相性の良さを感じました。
研修が終わってから懇親会にも参加。これがまた得がたい情報源。
また、しっかりと学ばせていただきました。ありがたい体験です。
さて、「アドラーと2人の子」シリーズの3回目は、アルフレッド・アドラーの次女のアレクサンドラ・アドラーのセラピストとしての側面です。
アレクサンドラのセラピストとしての指導的な役割は、父のアルフレッド・アドラーの業績をシステム化し、現場で使えるようにしたことです。
1.そのことは、次の刊行物で明らかです。
・ドイツ語で書かれた「個人心理学年報」の『児童訓練での助言の技法』(1929)、『神経症と精神病の境界ゾーン』(1935)
・『人間の不適応の教唆』(1938)は、アメリカとイギリスで同時に発売され、1948年、1970年、1980年に増刷され、ドイツ語版が1990年に出ています。この本は、父アルフレッド・アドラーの理論をさらに体系化して述べたものです。
・彼女はさらに、個人心理学の教義を分類して、本の一部の章、小冊子、さまざまな辞書・百科事典に書き残しています。
それらで彼女が強調した概念は、(1)器官劣等性、(2)心的補償、(3)神経症的な仮想的目標/ライフ・スタイル、(4)家族内の地位や誕生順位による影響、でした。
・彼女は、(アメリカの)「個人心理学ジャーナル」にもたくさん論文を書いてもいます。
彼女が主に書いたのは、1950年代には(1)統合失調症、神経症、人格障害の治療、(2)心理療法における現代的な薬物処方のあり方、1960年代には(1)補償、過補償の概念、(2)グループ・セラピーの実践、(3)実存主義者の出現と宗教的な心理療法、です。
2.1937年のアルフレッド・アドラーの死後、アレクサンドラは、1937年版の「個人心理学ジャーナル」を編集し、個人心理学会の国際組織の理事長職を担いました。1948年には、マンハッタンで新たに設立されたアルフレッド・アドラー精神衛生クリニックの医療担当理事になり、さらには新たなアルフレッド・アドラー研究所に積極的に関与しました。
・その後は、米国アドラー心理学会の理事長を務めました。
次回は、アレクサンドラ・アドラーの世に知られざる側面をお伝えします。
自分で書いていてもあまり面白くないのですが、意外な発見があります。
もう少々おつき合いください。