○森岡正博『感じない男』(ちくま新書)筑摩書房 2005.10
なぜ私はミニスカに欲情するのか。なぜ制服に惹かれるのか。私にとってポルノとは何か。なぜ私はロリコンの気持ちが分かるのか。
著者は生命学を専門とする大阪府立大学のセンセイ(教授)であり、これは学問的な試みの書である。しかし、ふつうの女性学・男性学の研究者がするように「男は」「女は」という主語を用いることを避け、敢えて「私」という主語を選択し、自分自身のセクシャリティについて自問していく。
その結果、著者は2つの問題を発見する。1つめは自分が「感じていない」という事実から目をそむけてきたこと。その結果、どこかに「すごい快感」があるに違いないと妄想し、「感じている(に違いない)女」への憎悪が肥大する。もう1つは「男の体は汚い」というぬぐいがたい意識、そのために自分の体を肯定することができないこと。
私は、自分の体を肯定できない感覚というのは、むしろ女性のものかと思っていたので、興味深かった。大人の男(女)としての身体が肯定できないから、第二次性徴が始まる以前の少年少女に憧れる心理というのは男女共通だと思う。「別の性でもあり得た自分」の想像に固着する気持ちも分かる。でも、そこから、著者のように、自分が少女の体に入り込みたいとか、少女に自分の子供を生ませて「私」自身を生み直したい、というのは女性にはない感じ方である。多くのロリコン男性はこれに同意するのだろうか。
著者は私と同世代(1958年生)だが、自分の体に対する感覚は、もしかすると男女差よりも世代差のほうが大きいかもしれない。芹沢俊介さんのルポルタージュなどを読んでいると、自分の体を完全に取替え可能、消費可能なものとしてしか捉えられない少女たちが出てくる。たぶんこの感覚は少年にも拡大していると思う。したがって、「自分の体は汚い」という自己否定に出発するセクシャリティは、ある世代以下には共有されないのではないかと思うが、どうか。
あと、男性がポルノを愛好する理由には、女性への憎悪や支配欲があることはもちろんだが、同時に男性の自虐的・自傷的な心理が働いている、という告白は、よくぞ言った、という感じがした。セクシャリティというのは、亜流フェミニストが図式化して非難するほど単純な、支配/被支配の問題ではない。
最後に著者は、「自分の体は汚い」という感覚を「私はまだ克服できていない」と率直に認める。一方、「不感症」であることについては、それをいさぎよく認め、「不感症であってもかまわないからやさしい男になりたいと思うようになった」と述べる。恋人の第一条件は「やさしい人」と考える女性たちは、この宣言をどう受け止めるだろうか。(私は「どっちにしても、そんなにがんばったこと言わなくていいのに」とひそかに思ったのだけど)
☆最後に敬意を表して、著者のサイト。
http://www.lifestudies.org/jp/
なぜ私はミニスカに欲情するのか。なぜ制服に惹かれるのか。私にとってポルノとは何か。なぜ私はロリコンの気持ちが分かるのか。
著者は生命学を専門とする大阪府立大学のセンセイ(教授)であり、これは学問的な試みの書である。しかし、ふつうの女性学・男性学の研究者がするように「男は」「女は」という主語を用いることを避け、敢えて「私」という主語を選択し、自分自身のセクシャリティについて自問していく。
その結果、著者は2つの問題を発見する。1つめは自分が「感じていない」という事実から目をそむけてきたこと。その結果、どこかに「すごい快感」があるに違いないと妄想し、「感じている(に違いない)女」への憎悪が肥大する。もう1つは「男の体は汚い」というぬぐいがたい意識、そのために自分の体を肯定することができないこと。
私は、自分の体を肯定できない感覚というのは、むしろ女性のものかと思っていたので、興味深かった。大人の男(女)としての身体が肯定できないから、第二次性徴が始まる以前の少年少女に憧れる心理というのは男女共通だと思う。「別の性でもあり得た自分」の想像に固着する気持ちも分かる。でも、そこから、著者のように、自分が少女の体に入り込みたいとか、少女に自分の子供を生ませて「私」自身を生み直したい、というのは女性にはない感じ方である。多くのロリコン男性はこれに同意するのだろうか。
著者は私と同世代(1958年生)だが、自分の体に対する感覚は、もしかすると男女差よりも世代差のほうが大きいかもしれない。芹沢俊介さんのルポルタージュなどを読んでいると、自分の体を完全に取替え可能、消費可能なものとしてしか捉えられない少女たちが出てくる。たぶんこの感覚は少年にも拡大していると思う。したがって、「自分の体は汚い」という自己否定に出発するセクシャリティは、ある世代以下には共有されないのではないかと思うが、どうか。
あと、男性がポルノを愛好する理由には、女性への憎悪や支配欲があることはもちろんだが、同時に男性の自虐的・自傷的な心理が働いている、という告白は、よくぞ言った、という感じがした。セクシャリティというのは、亜流フェミニストが図式化して非難するほど単純な、支配/被支配の問題ではない。
最後に著者は、「自分の体は汚い」という感覚を「私はまだ克服できていない」と率直に認める。一方、「不感症」であることについては、それをいさぎよく認め、「不感症であってもかまわないからやさしい男になりたいと思うようになった」と述べる。恋人の第一条件は「やさしい人」と考える女性たちは、この宣言をどう受け止めるだろうか。(私は「どっちにしても、そんなにがんばったこと言わなくていいのに」とひそかに思ったのだけど)
☆最後に敬意を表して、著者のサイト。
http://www.lifestudies.org/jp/