見もの・読みもの日記

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「自己責任」再考/日常・共同体・アイロニー

2005-02-19 21:36:32 | 読んだもの(書籍)
○宮台真司、仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー:自己決定の本質と限界』双風舎 2004.12

 2004年2月、3月、5月、6月の4回に渡って、三省堂本店で行われたトークセッションの記録である。なんだか「拾いもの」的におもしろかった。宮台真司の本はときどき読んでいる。仲正昌樹さんの名前は、最近、書店の平積み棚で見かけるので記憶にはあったが、何も読んだことがない。どんな人なんだろう?という興味があった。

 本書の冒頭は仲正さんの「まえがき」で始まるが、宮台真司という存在に対する長年の屈折した思いを、うだうだと連ねている(失礼)。「ウザい学生は嫌いだ」みたいなことを書いているわりには、お前がいちばんウザいよ!と言いたくなるような口ぶりである。

 対談の最初の2回は、正直、面白くなかった。仲正昌樹は専門のドイツ哲学から現代政治にかかわる社会思想までを、大学の講義みたいにきっちり説明し、宮台真司が「仲正さんはやっぱり鋭い」なんて持ち上げるのだが、2人の間に対話が成立している印象が薄い。凡庸な言論人や市民運動を、バカサヨ、バカウヨと呼んで斬っていくのだが、小気味よさよりも乱暴さが目立ってうんざりした。

 それが、3回目から俄然、おもしろくなる。2004年5月の対談は、同年4月に起きたイラクの日本人人質事件をマクラに始まる。この事件、というより、この事件に対する日本人の反応、もともと2人の対談の主要テーマであった「自己決定=自己責任」という言葉のひとり歩き状態が、2人にある種の危機感を与えたのではないか。対話に熱と真剣さが増し、実体験や内省を踏まえて、心に沁みる発言が続く。

 仲正昌樹は言う。どんなにうまくルールを作っても、誰もが納得できるルールは作れない。この”正義”のためには、あの”正義”を切り捨てる決断が必要になる。だから、我々は、そのつど、プラグマティックに”正義”を選びなさなくてはならない。しかし「お前が正しいといったおかげで私たちはひどい目にあった」という予想もしないバッシングを受けるかもしれない。そういうリスクを抱えながらも敢えて”正しい”ものを選び、その責任をとる。これが民主化された社会だと思う。

 宮台真司がイエスの教説を例に引きながら、これを受ける。「人のなす区別」は「神のなす区別」=真理ではない。しかし「人のなす区別」なしには何も始まらないのだから、絶えずオポチュニティックに線を引きなおし「区別を受け入れつつ永遠に信じずに実践する」しかない。

 4回目の対談で、宮台真司はさらに気になることを付け加えている。どこで線を引きなおしても「人のなす区別」は様々な抑圧を生み、自業自得を生む。にもかかわらず、我々は区別の線を引かないでは生きられない。それこそが「原罪」という観念の中核ではないか。現代日本の言論人から、こんなふうにイエスの教説を血肉化した発言を聞くことは稀なので、ちょっとびっくりした。

 それにしても昨年の4月、5月はあれほど日本を席巻した「自己責任」という言葉、年末には流行語大賞にさえ選ばれずに消えてしまったなあ。こんな重いはずの言葉さえ、軽々と消費してしまう社会が、やっぱりちょっと恥ずかしい。
コメント
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