○渡辺浩平『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書) 講談社 2008.7
中国はおもしろい。そう感じたのは10代の頃で、以来、中国の歴史・文化から政治・社会・教育事情まで、広く関心を払ってきた。インターネットの普及で、現地の情報に直接アクセスできる機会は増えた。にもかかわらず、変化が急激すぎて、中国については、年々分からないことが増えているような気もする。「メディア」をめぐる真相もそのひとつである。
本書には、中国メディアをめぐる3つの欲望が語られている。ひとつはメディアビジネスに賭ける企業人の欲望。ひとつは開放された大衆の欲望。そして、イデオロギー統制を持続させようとする中国政府の欲望である。いずれも日本より突出して先鋭的だ。市場原理にのっとった企業人の欲望でさえもそうだと思う。本書には、液晶ディスプレイを用いて「白領(ホワイトカラー)」や「小資(プチブル)」にターゲットを絞った広告戦略を展開し、純利益1億ドル超を稼ぎ出した30代の青年実業家、江南春が紹介されている。
メール投票によるアイドルオーディション番組「超女(超級女声)」は、欧米や日本の類似番組をモデルとし、湖南衛星テレビの制作者が仕掛けたものだったが、中国の視聴者に「メディアに参加する快楽」を呼び覚まし、爆発的な人気を得た。さらに、この番組は、共産党のイデオロギーモニュメントを笑いのめすような「超女記念碑」というパロディ彫刻を生み出し、エグいキャラで笑いを取る「反偶像」ブームまで生み出したという。中国大衆の欲望は、企業人の思惑の先を行っているように思える。
中国政府は、こうした情勢に対して、権威と統制で臨むだけではない。むしろメディアパワーを積極的に利用しようと考えているフシがある。「超女」と同様のオーディション番組「好男児」でチベット族の青年がグランプリを獲得し、スターとなったことは、胡錦濤政権が唱える「和諧(ハーモニー)社会」の実例である。テレビ講座でアイドル学者が「論語」や「三国志」を平明に語る国学ブームは、台湾や香港の脱中国化を阻止するために仕掛けられたともいう。国家戦略に関しては、中国政府当局は、日本政府より上手(うわて)かも。
もちろんメディアの力と快楽を知ってしまった大衆は、全て政府の思い通りにはならない。しかし、その中国大衆も、メディアを通じて感情的な「世論」を共有することを覚えたばかりで、客観的な「輿論」を形成するまでには至っていない。その結果、時には、感情の高揚に基づく巨大な攻撃的エネルギーが、外部に向かって噴出することになる。同じ東アジアに暮らす人間にとっては、かなり厄介な状態である。早く成熟した大衆社会となってほしい。いや、この点、日本だって怪しいものだが。
中国はおもしろい。そう感じたのは10代の頃で、以来、中国の歴史・文化から政治・社会・教育事情まで、広く関心を払ってきた。インターネットの普及で、現地の情報に直接アクセスできる機会は増えた。にもかかわらず、変化が急激すぎて、中国については、年々分からないことが増えているような気もする。「メディア」をめぐる真相もそのひとつである。
本書には、中国メディアをめぐる3つの欲望が語られている。ひとつはメディアビジネスに賭ける企業人の欲望。ひとつは開放された大衆の欲望。そして、イデオロギー統制を持続させようとする中国政府の欲望である。いずれも日本より突出して先鋭的だ。市場原理にのっとった企業人の欲望でさえもそうだと思う。本書には、液晶ディスプレイを用いて「白領(ホワイトカラー)」や「小資(プチブル)」にターゲットを絞った広告戦略を展開し、純利益1億ドル超を稼ぎ出した30代の青年実業家、江南春が紹介されている。
メール投票によるアイドルオーディション番組「超女(超級女声)」は、欧米や日本の類似番組をモデルとし、湖南衛星テレビの制作者が仕掛けたものだったが、中国の視聴者に「メディアに参加する快楽」を呼び覚まし、爆発的な人気を得た。さらに、この番組は、共産党のイデオロギーモニュメントを笑いのめすような「超女記念碑」というパロディ彫刻を生み出し、エグいキャラで笑いを取る「反偶像」ブームまで生み出したという。中国大衆の欲望は、企業人の思惑の先を行っているように思える。
中国政府は、こうした情勢に対して、権威と統制で臨むだけではない。むしろメディアパワーを積極的に利用しようと考えているフシがある。「超女」と同様のオーディション番組「好男児」でチベット族の青年がグランプリを獲得し、スターとなったことは、胡錦濤政権が唱える「和諧(ハーモニー)社会」の実例である。テレビ講座でアイドル学者が「論語」や「三国志」を平明に語る国学ブームは、台湾や香港の脱中国化を阻止するために仕掛けられたともいう。国家戦略に関しては、中国政府当局は、日本政府より上手(うわて)かも。
もちろんメディアの力と快楽を知ってしまった大衆は、全て政府の思い通りにはならない。しかし、その中国大衆も、メディアを通じて感情的な「世論」を共有することを覚えたばかりで、客観的な「輿論」を形成するまでには至っていない。その結果、時には、感情の高揚に基づく巨大な攻撃的エネルギーが、外部に向かって噴出することになる。同じ東アジアに暮らす人間にとっては、かなり厄介な状態である。早く成熟した大衆社会となってほしい。いや、この点、日本だって怪しいものだが。