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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

王権に背いて/足利義満 消された日本国王(小島毅)

2008-04-07 23:44:15 | 読んだもの(書籍)
○小島毅『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)光文社 2008.2

 歴史マニアの間ではあまり人気のない人物だと思うが、私は足利義満が好きだ。それから平清盛も好きだ。両者に共通するのは、「東アジア世界における日本」を構想した点である。

 東アジアの国際秩序に目を向ければ、当然、日本一国の権威の中心は相対化される。だから、皇国史観的には、けしからぬ存在と思われることになった。平清盛の場合は、張り合った相手が「日本国第一の大天狗」後白河法皇だから(私はこのひとも大好き!)タヌキとキツネの化かし合いで、いい勝負という感じだが、義満の場合は、ちょうど天皇家が四分五裂で存亡の危機にあっただけに、彼のヒール(悪役)ぶりが、国家主義者の憤激を買うのだと思う。

 何しろ義満は、明の皇帝に臣従して「日本国王」の称号を貰った。天皇の臣下でありながら不忠の極み、ということで、義満には、天皇家乗っ取りの意図があったと見る説もある。しかし、著者はこの説を取らない。日本の天皇家など彼の眼中になかったろう、と考えるのである。

 応永元年(1394)従一位太政大臣に昇った義満は、翌年、出家して道義と号した。「出家」とは、天皇を頂点とする律令官人制の外に出ることである。そして、義満を追って、多くの公家・武家が出家ラッシュを起こす。彼らは、天皇の権威を離脱して、別個の政治体制を作ろうとしたのではないか、と著者は言う。確かに、古代~中世日本の「出家」には、信仰とは異なる「機能」があったと思う。なお、義満は禅宗から密教に接近していったらしい。やっぱり、王権と対決するには密教なんだな~というのも面白い。

 義満が、明の永楽帝、朝鮮王朝の太祖・李成桂と同時代人であることも注意しておこう。彼らは、いずれも皇位・王位の簒奪者である。実力だけがものをいう時代が、東アジア三国で同時進行中だったのだ。これも面白い現象だと思う。

 また、本書で初めて知ったのは、NHK大河ドラマ『太平記』(1991年放映)をめぐるいきさつ。制作発表は1989年に行われた。つまり、昭和の御代が終わって初めて、「逆賊」足利尊氏を主人公とする大河ドラマが可能になったのだ。「金八先生」武田鉄矢が演じた楠正成は「皇国史観のアンチテーゼ」だという。ふーん。NHKなかなかやるな。

 最後に相国寺(承天閣美術館)蔵の『足利義満像』について触れておく。応永15年義満死去の直後に作られ、息子の義持が賛を付けたものだ。相国寺にはもう1点、和歌を記した『足利義満像』があるので、はじめ混乱したが、昨年、東博の『京都五山 禅の文化』で私が見たのは前者らしい(→展示替リスト)。でも、義持の賛が、父の義満を宋の徽宗皇帝になぞらえている(徽宗の三回忌法要で使われた説法をそのまま引用している)とは、知らなかった。これって、ものすごい嫌味ではないか。実の父親を亡国の天子になぞらえるなんて。もっとも冥途の義満は、鼻で笑って、気にもしてないだろう。
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政治学者vs文学者/戦後日本は戦争をしてきた(姜尚中、小森陽一)

2008-04-06 23:14:11 | 読んだもの(書籍)
○姜尚中、小森陽一『戦後日本は戦争をしてきた』(角川oneテーマ21) 角川書店 2007.11

 本書は、刊行後すぐに買ったきり、手に取る機会がなくて放置していた。気が付いたら、もう半年近くも経っている。いつもカレントな政治状況を捉えて発言しているお二人であるだけに、本書の内容はもう賞味期限切れかもしれないなあ、と思って、あまり期待を持たずに読み始めた。

 そうしたら、とんでもなかった。世の中には、1冊か2冊のセンセーショナルなベストセラーだけで消えていく(自称)評論家は数々いるが、この二人は、そういう輩ではない。本書は、2006年の11月、12月、2007年の1月、8月の計4回にわたる対談を基にしている(ちょうど安倍政権に重なる1年である)。最初の対談からは1年以上が経過しているが、それくらいでは、全く発言の鮮度が落ちない。それは、両氏とも、近代の始まり(あるいはそれ以前)まで届く長いスパンの「歴史」認識があり、それぞれの専門分野の「古典」をよく学んでいるからだ。ブッシュの「テロとの戦争」を考えるために、ドストエフスキーの『悪霊』を想起し、フランス革命のロベスピエールまで遡行する。

 私は、学者が現実の政治にコミットする際の、これがあるべき姿だと思った。たぶん「歴史」や「古典」に学ぶ態度だけが、目の前の現象(同時多発テロにしろ、北朝鮮問題にしろ)にヒートアップする人々を鎮静化することができる。にもかかわらず、逆に人々の恐怖心や敵愾心を焚きつける学者や有識者が多すぎると思う。

 小森陽一氏は、現代日本では例外的に深く政治にかかわってる文学者である。一方の姜尚中氏は、文学の価値をよく分かっている政治学者だと思う。いわく、「どれだけ悲惨な経験があったと言っても、人の心は動かない。しかし一人の横田めぐみという人がいれば、人は心が動く」。鋭い発言である。朝鮮戦争数百万、ベトナム戦争数百万という、人々の悲惨な経験。けれども政治学者は大状況しか語ることができない。そこで人の心が動くようなものを発見し、それを人々に突きつけることは「文学の仕事」ではないか、と姜氏は問う。これは、日本の戦後文学が積み残した問題に対しての、かなり本質的な問いかけだと思う。

 本書は、この手の政治・社会時評にありがちなペシミスティックな結論をとらない。面白いなあ。こんなに気に食わないことだらけなのに、どうして未来を肯定的に捉えられるんだろう。姜氏はそのわけを「(歴史の女神)クリオは必ず五割は微笑みかけてくれる」と語る。やっぱり歴史なのである。それから「実」のある人――有機的知識人(専門技師とか小学校の先生とか、専門職の人々)への期待と信頼も語っている。確かに、この階層がつぶされない限り、日本再生の可能性は残っているだろう。
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取り残された人々/被差別部落とは何か(喜田貞吉)

2008-04-04 23:40:04 | 読んだもの(書籍)
○喜田貞吉『被差別とは何か』 河出書房新社 2008.2

 はじめ、題名に似合わない、かわいらしい装丁が目についた。それから著者の名前を見て、目を疑った。奥付を開けたら新刊なので、もう1回驚いた。喜田貞吉(1871-1939)は、広範な分野に足跡を残した個性的な歴史学者だが、今日、その名前を知る者は多くないだろう。私だって、たまたま、文庫化された『小説東京帝国大学』を読んでいなければ、目を留めなかったかも知れない。喜田はこの小説の後半の登場人物で、「南北朝正閏問題」をめぐって理不尽な批判に曝され、職を失うに至る。帝大出の少壮学者の不運に同情していたとき、まるで吸い寄せられるように、本書が私の前に現れたのである。

 本書は、喜田貞吉の個人雑誌『民族と歴史』第2巻第1号「特殊部落研究号」(1919年7月=大正8年)の喜田執筆部分の完全復刻である。冒頭の「特殊の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」が最も包括的な論考で、そのほか「エタ」の名義、特殊の人口増、上代の肉食、青屋(染物屋、一部地域では視された)、足洗(エタを離脱すること)など、個別問題についての短い論考10数編を併せ収めている。

 特殊民とは、本来、普通人と何ら区別のあるものではない。そもそも古代には、さまざまながいた。「家人(けにん)」や「侍(さむらい)」は良民のうちに数えられなかった。「」や「」は比較的早くに解放された。ただ「(エタ)」のみが最後まで取り残された。これは、日本人が仏教の影響を受けて以降、肉食を忌避する気持ちが強かったためであろう。しかし、近代に至ってその禁忌も薄れた。肉食する者がエタであるなら、今日の日本人の大半はエタの仲間である、と著者は大胆に言明する。

 また、両親が2人、祖父母が4人なら、10代前は512人、20代前は52万4千余人となって、日本民族は、多数の先祖なり子孫なりが網の目をすいたように組み合わさって出来ている。「一切の国民はどこかで必ず縁がつながっている」のである。先住民や帰化人でも立派な貴族になった例があり、日本民族でも運が悪ければに落ちる。「我が日本では、民族上から貴賤の区別を立てて、これを甚だしく疎外するということは、少くとも昔はありませんでした」と言う。

 このように、著者は明快な論理と実証に基づき、被差別民の境遇が、いかに無慈悲な偶然と因習によるものであるかを説いている。社会改良に言及せず、事実の解明に留まっている点に、批判はあるかもしれないが、私は非常に気持ちよく本書を読んだ。問題というのは、今日、政治もマスコミも「存在しないフリ」をしすぎではないかと思う。誰もきちんと語らないから、ネットの上などで、耳を覆うようなデタラメと憶説が飛び交うのである。そう考えると、2008年の今日、本書が「新刊」として世に出る意味は大きいのかもしれない。河出書房さんGJ!

 著者の拠って立つのは基本的に「史料」なのだが、エッセイふうに挟まれた実体験が、妙に印象に残った箇所がある。たとえば「上代肉食考」で、「自分らの如きも子供の時分には、決して獣肉を喰った事はなかった」が、中学校の寄宿舎に入ったら、夕食に牛肉が出るので、上級生に倣ってこわごわ食べてみた、などというエピソードは、明治人の食生活の実態が分かって興味深い。大正3年に没した父親は、おそらく生涯牛肉の味を知らなかったと思われ、著者も「家庭に帰っては、牛肉の香りを嗅いだ事も無い様な顔をしていた」のだそうだ。へえ~。そりゃあ、肉食するエタの人々が異人種に見えた気持ちも分かろうというものだ。

 それにしても、被差別とは「境遇により、時の勢いによって」落伍し、取り残された人々に過ぎない、と論ずるとき、著者は自らの人生を襲った不運を思い合わせていたのだろうか、いなかったのだろうか。気になる。

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春の愁いにも似て/南蛮の夢、紅毛のまぼろし(府中市博物館)

2008-04-03 22:39:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
○府中市博物館 『南蛮の夢、紅毛のまぼろし-安土桃山の名宝から夢二まで』

 たまたま仕事でオランダに行く機会があり、そのあと、神戸市立博物館で南蛮美術企画展『バイオグラフティ異国趣味』を見てきた。と思ったら、今度は府中である。なんだか今年の私は、可笑しいくらい「南蛮」「紅毛」づいている。

 それにしても、ちょっと不思議な展覧会だ。安土桃山時代のキリシタン絵画、江戸のオランダ趣味など、実際に「南蛮(=スペイン、ポルトガル)」「紅毛(=オランダ)」と接触をもった時代の歴史的遺物と、近代以後、限られた異国との接触にロマンを掻き立てられた芸術家たちの想像の産物が、敢えてごちゃまぜに展示されている。

 たとえば冒頭のセクションは、伊達政宗に派遣されローマ教皇との謁見を果たした支倉常長にスポットを当てる。最初に目に入るのは、簡素な木製の十字架と青銅のメダイ(聖母子を刻んだ楕円形のメダル)。素朴な農民画のような、ロザリオの聖母子像。そして、え、これが国宝?と目を疑う、簡素な木製の鞍。全て常長がヨーロッパから持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」(仙台市博物館所蔵)である。

 私は、これらの歴史資料と並んだ肖像『イスパニアに寄る常長』(※記憶に拠る)をしみじみと眺めた。頑丈そうな幅広の体躯。体同様、四角張った顔には、意志の強さとひたむきさが現れている。もっともこの肖像は、明治生まれの日本画家・福田恵一が描いたものだ。福田には、馬を連ねてイスパニアからローマへ向かう常長を描いた『使命』という、ロマンチシズムあふれる大作もある。

 しかし、福田は空想だけで常長の肖像を描いたわけではない。なんと、当時のヨーロッパで描かれた常長の肖像が伝わっているのである。私が見ることのできたのは、小さな銅版画だったが、なかなか伊達な(→この表現も可笑しいなあ)クリスチャンぶりである。ほかに有名な油彩画があり(上記サイトに画像)、本展では、明治時代の模本(児島虎次郎筆)を見ることができる。

 このほかにも金森観森の『南蛮来』とか、三露千鈴の『殉教者の娘』とか、松本華羊の『伴天連お春』とか、守屋多々志の『キオストロの少年使節』とか、「南蛮」「紅毛」を主題にした近代絵画に、私は酔ったように魅せられてしまった。いずれも明るく、溌剌と清新な香気に満ち、それでいて、ほのかな愁いの影が差している。ちょうど今の季節、春の盛りにふさわしいように思う。太田天洋の『亜欧堂先生』は、アトリエの亜欧堂田善を空想で描いたもの。田舎の職人親父みたいな風貌が微笑ましい。

 なお、歴史的遺品を主に見たいという人は、重要美術品『南蛮人来朝之図』(安土桃山時代、長崎歴史文化博物館、4/22~5/11)と重要文化財『泰西王侯図』(安土桃山時代、群馬県・満福寺、4/15~5/11)が出品される後半がおすすめ。私は早く行き過ぎたかもしれない。ま、周辺の桜が見ごろだったので、いいや。
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上野の博物館でお花見

2008-04-02 22:57:20 | なごみ写真帖
3月最後の週末、桜は既に満開。上野公園は花見客で大賑わい。
そんな中で、国立博物館の裏庭は、ゆっくり花を楽しむことのできる穴場。

今年は夜桜ライトアップもするらしい。
先週末は、薬師寺展をゆっくり見るため、朝から出かけたのだが、
今週末は夜桜を見に行ってみようかしら。



国宝室の『花下遊楽図屏風』もお見逃しなく。

あ、歴史資料室の特集陳列も4/1から『博物図譜』に展示替えしてる!

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白鳳の春/薬師寺展(東京国立博物館)

2008-04-01 23:53:27 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 特別展 平城遷都1300年記念『国宝 薬師寺展』

http://www.tnm.go.jp/

 上野の桜が満開になったと聞いて、慌てて薬師寺展に行ってきた。最近の『大徳川展』や『近衛家1000年の名宝』に比べると、展示品の総数は少なめだったが、このくらいのほうが疲れなくていい。

 最初の展示室は、広い会場いっぱいに朱塗りの社殿が再現されていた。両脇を固めるのは阿吽の狛犬。木製で、手塚治虫のマンガみたいな顔をしている。あ、薬師寺の南にある休ケ岡八幡宮だ、とすぐに分かった。社殿の廂の下には、左から、仲津姫命・僧形八幡神・神功皇后の三神像が並んでいる。私の大好きな神像彫刻だ。ひょいと小脇に抱えられそうな大きさ(ぬいぐるみのクマほど)であるが、凝縮された迫力に圧倒される。特に神功皇后像は、厳しい横顔が美しい。

 向かいのガラスケースに展示されているのは、社殿の障子(板)に描かれた22体の男女神像。寛治年間の作を永仁3年(1295)に補修したものだそうだ。これは、何かのカラー図版で見た記憶がある。たぶん『芸術新潮』の特集「薬師寺は生きている」(1997年11月号)だと思う。本物が見たい!という10年越しの念願が叶って感無量。衣冠束帯の男神たちは、それぞれ個性的な表情を見せる。笏の扱い方が、肩に当てたり、袖をかぶせたり、会議に飽きた人々の動作を写していて妙にリアル。フリフリ衣装の女神たちは、ロココの姫君みたいで美しいなあ。

 隣室に進むと、塔頂の九輪の巨大な模式図に目を奪われる。根元には「露盤蓋板」と「伏鉢」。昭和25~27年に新補のものと取替えられた旧作である。耐えた風雪の重みを示すように、「露盤蓋板」は少し歪んでいる。そして、おお!飛天を模した「水煙」だ、と思ったら、昭和45年~46年に東京藝術大学が模造したものだそうだ。しかし、よくできている。全体に巧妙な亀裂の跡が走っていて、パーツから組み立てたのだろうか、と想像に誘われる。

 ふと振り返って、順路の先に目をやると、はるかな視線の先に、見覚えのあるお姿――東院堂の聖観音がいらした。和辻哲郎の『古寺巡礼』に、最も印象深く登場する、あの聖観音像である。清浄さと初々しさに心洗われる、白鳳彫刻の”華”だ。騒ぐ心を落ち着けて、ゆっくりと近づく。側面にまわると、意外と腰周りが太い。さらに普段は見られない背面に立つと、お尻に垂れたリボン(帯)と瓔珞の美しさに息を呑んだ。よく見ると、正面にも瓔珞は下がっているのだが、溌剌とした肉体や、左右に往復する天衣の軽やかなリズムに掻き消されて、あまり華美な印象は無い。それが、背後にまわると、実にあでやかである。この背中とお尻を、和辻に見せたら、どんな感想をもらしただろうか。

 などと感慨にふけりながら、スロープを上がって、次の会場へ。広い会場にお立ちになっているのは、日光・月光の両菩薩である。まずはバルコニーに立って、高い目線で両菩薩に向き合い、次に、同じ床面から見上げるように誘導される。二菩薩は、不思議と印象が違うのだけど、どこが違うのかを具体的に指し示すのは難しい。日光菩薩のほうが、腰のひねりが少し大きいだろうか。実際の角度の大小ではなくて、横腹の肉のくぼみ方がそう感じさせるのである。

 背後にまわると、日光菩薩は、堂々とした肩幅に細い腰が少しアンバランスな印象である。月光菩薩のほうが全体に細身。しかし、巨大な菩薩像の後ろに立って、多数の善男善女(参観客)に向き合うというのは不思議な体験だった。なんだか仏菩薩の眷属のひとりになった気分。像の巨大さがむしょうに頼もしく、懐かしく思える。

 後半の会場では、瓦、三彩壺、塑造の破片などから、かつての壮麗な伽藍群を想像する。やっぱり、塔本塑像があったんだなあ。それも胡人の像を含むようなものが。国宝『吉祥天像』も見られて大満足。やっぱり、大和路のお寺は春が似合う。
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