見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

蘭州・寧夏から内蒙古2010【初日】東京→蘭州

2010-08-19 09:24:52 | ■中国・台湾旅行
 成田にて、友人2名と合流。CA926(成田発15:15→北京着18:10)搭乗。

 北京から、CA1277(北京発20:10→蘭州発22:40)の予定が、出発が1時間以上遅れる。写真は機内で出た簡単な夜食。見た目は悪いが、アルミホイルで保温したパンが意外と美味。



 ガイドの劉さんに迎えられ、専用車でホテルへ。夜空にはペガサス座の大四角形やカシオペヤが見えた。

(8/31記)
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【ただいま夏休み中】今年は中国西北地方11日間

2010-08-19 08:26:00 | なごみ写真帖
 今日から夏休み。恒例の中国旅行に出かける。しばらく更新はできないので、高野山のハスの花で飾っておく。



 今年の目的地は、蘭州~銀川~フフホト。結局(遊びすぎなんだが)自宅を出る前にあれをして、成田に着いたらあれとこれをして、と、仕事みたいにダンドリづけながらの、慌ただしい出発になってしまった。

 帰国が日曜深夜で、そのあと、溜まっているであろう11日分のメールチェックをして、月曜からの1週間に臨むのはかなりきびしい。

 それでも出かけてしまうのは、やっぱり肉体的に日常生活を離れることと、「現地」でしか味わえないものに、意味があるから。では、この記事をUPしたら、近くのコンビニへ買いものに。

 帰国したら、追って、旅行中の記事をUPします。
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非科学的で、したたか/大飢饉、室町時代を襲う!(清水克行)

2010-08-18 23:25:14 | 読んだもの(書籍)
○清水克行『大飢饉、室町時代を襲う!』(歴史文化ライブラリー258) 吉川弘文館 2008.7

 『日本神判史』でファンになった”若旦那”清水克行氏の本2冊目。本書は、応永27年(1420)から翌28年にかけての大飢饉をドキュメンタリーふうに追いながら、中世日本人の生活と思想を多角的に論じたものである。

 私のように、この時代の歴史をほとんど知らない素人には、びっくりするほど面白い話が次々と飛び出す。まずは「応永の大飢饉」が始まる1年前、謎の船影が対馬を襲い、次々と上陸を開始する。実は李氏朝鮮軍227艘による対馬侵攻だった(応永の外寇:ただし著者はこの用語を使用しない)。おおー村上龍の小説『半島を出よ』みたいじゃないか、と思った。詳細は『朝鮮王朝実録』(世宗実録)に記事があると書かれていたので、ネットで探してみた。翻刻文はすぐ見つかったが、ソウル大学奎章閣のサイトで見られるはずの画像は、なぜか表示できなかった。

 それにしても、この事件の情報が京都に伝わったときは「蒙古の船500艘」に化けていたというのには驚いた。折り悪しく、室町幕府をめぐる対外関係は、対朝鮮のみならず、対中国も最悪で、明の永楽帝は足利義持に「せいぜい城壁を高くし、堀を深く掘って待っていろ」という恫喝の言葉を伝えているという。うわ~よしてくれ、よりによって、永楽帝に喧嘩を売るなんて、考えただけで冷や汗が出る。でも小説やドラマのネタとしては、ずいぶん面白そうだ。「辺境の地域紛争が日本を取り巻く世界帝国の巨大な陰謀として映り」「対外的な脅威と自国の優越だけがいたずらに誇張される」という著者の評は、なんだか、最近の日本の姿と、あまり変わらないように思った。

 本書に描かれた中世の人々は、宗教的・呪術的行為に大きく依存するなど、現代人と異なる点もある一方で、経済的な「利」に関するしたたかさは、ほとんどわれわれと変わらない。百姓たちは、飢饉を理由に荘園領主から「損免」(控除、年貢の減額)を勝ち取るべく、必死の政治闘争を行った(だから、彼らの訴えた飢饉の窮状を額面どおり受け取ってはならないのだそうだ)。荘園領主も、自分たちの生活がかかっている以上、必死である。東寺の僧侶たちには、京都と荘園(生産地)の米価の差に着目し、少ない年貢米でも京都に運ばれてくる代銭の総額はさほど減少しないのではないか、と細かく気をつかった議論をしていた記録もあるという。うーん、ちょっと東寺を見る目が変わってしまうな…。

 生産地が先に飢え、列島の富(食物)が京都に集中していたこと、やがて、その富を追って、難民たちが京都を目指し始めること。これも今日の、開発途上国と先進国の構図にぴたりと収まる。興味深いのは、人々が、京都を「富の集積地」であると同時に「有徳人の集住地」と考えていた、という著者の指摘である。有徳人、つまり富裕者は「相応の徳を社会に示す必要があると考えられていた」という。

 こう書くと穏やかな思想に聞こえるが、持てる富を出そうとしない富裕者に対して、難民・窮乏者は、暴力に訴えても施行を求めていいと考えられていた。これって、近代史の小松裕さんが『「いのち」と帝国日本』で書いていた「集団の圧力による廉売強制」の話にも似ていると思った。また、最近のネットに頻出している、富裕者に対する怨嗟の声、あれは嫌だなあ、と思って読んでいるのだが、この時代まで遡る根の深い思想なのかもしれない。
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お盆旅行2010:至宝の仏像+仏像修理100年(奈良国立博物館)

2010-08-16 14:17:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
 お盆旅行4日目の8月16日。「奈良博は16日(月)も開いてますよ」と教えてくれたのは、いつもの京都の仏友。この展覧会に一緒に行く約束をしていたのだが、当日朝、「腰痛のため断念」のメール連絡が入る。で、先々週の週末に、はじめて見仏ツアーをご一緒した、もうひとりの”年下の友人”とふたりで参観。

奈良国立博物館 なら仏像館 開幕記念 特別展『至宝の仏像 東大寺法華堂金剛力士像特別公開』(2010年7月21日~9月26日)

 入口を入ると、思わず、おお~と声が出てしまった。第1室に当たる大きな展示ホールには、かつて、かなり長い期間(6年間)、唐招提寺の薬師如来像が中央にいらっしゃった。その巨像がいなくなってしまったあとも、中央には柱状のモックアップが置かれて、視線を縦方向に集めるデザインになっていた(※2006年10月の記事)。今回は、横方向に見晴らしのよい空間に一新されたように思う。第1室に数歩足を踏み入れると、左の側室に展示された「東大寺法華堂金剛力士像」の姿の一部が目に入ったが、いや、まだまだ、とはやる気持ちを抑えて、中央および右の側室から見ていく。

 私は、中央ゾーンの仏像よりも、左右のケースのいちばん端に展示された仏像に惹かれた。右手にはずんぐりした園城寺の千手観音立像。むかしから奈良博で見ているが、好きな仏像だ。左手には地幅寺十一面観音立像。遠目にはそうでもないが、近寄ると、なんだか表情がいい。あと、中央ゾーンの奥(以前のとおり東大寺西大門勅額の展示されている裏側)においでの新薬師寺の十一面観音、これはスタイル抜群。腹は出ているが、ウェストの位置が高く、足が長くてきれい。

 さて、法華堂(三月堂)の金剛力士像であるが、さまざまな角度から、表情の変化や細やかな造型の工夫を楽しむことができる。特に背面を覗いたときは、思わぬ金と彩色の残り具合にびっくりした。下半身に比して、上半身が大きすぎる感じがするのは、力強さの演出もあるけれど、もう少し低い位置から見上げることが想定されているのかもしれないと思った。

 解説パネルに教えられたことも多かった。金剛力士には、着甲の「神将タイプ」と上半身裸体の「中国式力士タイプ」があること。中国でも着甲(神将)タイプはめずらしいが、いくつか例があり、そのひとつが炳霊寺第169窟であること。え!実は私は19日から中国に発ち、20日(金)には蘭州の炳霊寺石窟を見学予定なのである。「169窟、忘れず見てきてください」と同行の友人に念を押される。

奈良国立博物館 特別展『仏像修理100年』(2010年7月21日~9月26日)

 続いて新館へ。奈良博のサイトには、鎌倉・円応寺の初江王坐像(鎌倉国宝館寄託)や東大寺南大門仁王像の写真が掲載されていたので、南大門仁王像はともかく、やはり仏像がたくさん見られる展覧会なのだろうと勝手に思っていた。そうしたら、文書とか写真とかモックアップが中心の展示で、一瞬、拍子抜け。しかし、読み込んでいくと、これがなかなか面白い。明治や大正の修理はこんなふうだったのか、とか、修理の理念、技術、かかわった人々の人間模様みたいなものも窺えた。興味があれば一人でも楽しめると思うが、「なんだこれ」みたいな勝手な感想(※伎楽面『獅子』を見て→写真あり)を言い合える同行者がいると、楽しみ倍増。

 それぞれ展示図録あり(各1,000円)。リーズナブルな値段設定、内容豊富で嬉しい。ゆっくり落ち着いて読みたいと思う。ミュージアムショップを少しうろつき、奈良博を出たのは13:30近く。開館と同時に入って、4時間見ていたことになる。お昼過ぎには東京に帰ろうなんて、空しい皮算用だった(8/17記)。
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お盆旅行2010:春日大社万灯籠、東大寺大仏殿万灯供養会

2010-08-15 23:50:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
 8月15日、昨年(2009年)に続き、「春日大社万灯籠」と「東大寺大仏殿万灯供養会」に参詣。春日山の「奈良大文字送り火」は、まあ省略してもいいかな、と思う。昨年は、暗くならないと雰囲気が出ないだろうと思い、日没を待っていたら、春日大社の参道が、本当に真っ暗だったので、今年は少し早めに出発。夕映えが残っているくらいのほうが、石灯籠のかたちが見えて、参道の景色を楽しめる。

■春日大社 中元万燈籠(19:00~21:30)※実際は18:30頃から点火

 19:00頃、春日大社に到着。門前に短い列ができているが、昨年ほどではない。早めに出てきてよかった。↓昨年は見つけられなかった直江兼続奉納の釣燈籠を発見。社殿中央(ここは撮影禁止)の右側に掛っているが、暗くて説明板が読めないので、誰も気に留めない。



 昨年、撮影に失敗した鹿の絵の釣燈籠は社殿中央の左側。ただし、草花文など見た目の美しい燈籠は、だいたい年代が新しい(江戸末期~近代)。古いものは奉納者の銘文と、網目と家紋が入るくらい。



 多くの客が大仏殿の交差点方面に下るのと別れて、森の中の小道を北進。水谷茶屋を経て、若草山の山裾の旅館街に出る。19:55くらい。ここから大文字って見えるのな?とも思ったが、誰も待機していないところを見ると、見えないのだろうと思い直す。むしろ大文字に人が集まっている間に大仏殿に参拝してしまおうと思い、大仏殿参道方面に向かう。

 と、森の中から、20:00を知らせる重々しい鐘の連打。ちょうど東大寺本坊の近くで、下から登ってくる人たちの数が急に増える。携帯やカメラを構える人たちが多いので、何があるのかな?と振り返ってびっくり。左手の背後、松林の間に、飛火野の大文字が浮かび上がっていたのである。大仏殿参道附近からは見えないので、もう5分早く山を下っていたら、見逃していただろう。なんという幸運。



■東大寺 万灯供養会(19:00~22:00)

 大仏殿の前には、既に大勢の人。しかし、昨年に比べると列は短いし、会場のキャパが大きいため、意外と早く列が進むと分かっているので、余裕で待つ。まもなく正面の門(中門)から廻廊の中へ。昨年は、観相窓が開いて「お顔が見える!」という感激に、すっかり気を取られてしまったが、全ての門扉が開け放たれ、堂内が昼間のように明るく荘厳されるので、むしろ外から「全身が見える」のである。大仏殿の建物は、ふわっとかぶせられた虫籠か何かのように見える。



 もちろんお顔も、こんな感じ。



 老若男女、富める者も貧しい者も、異国の人も、分け隔てなく集まった有様は、大仏の本願にもかなう気がして、尊く思われた。しかし、堂内の掲示によると、3時間に約3万人が参拝するという現状は「安全にお参りいただける限度を大きく超えている」ため、平成23年度から、一般拝観者の無料拝観は取りやめる予定であるという。納経所で聞いたら、通常拝観と同じ、500円を予定しているとのこと。どのくらい効果があるのかなあ。

 20:30頃に外に出ると、ちょうど大文字が終わって、大仏殿に押し寄せてくる人波で門前がすごいことになっていた。有料化は、残念だが、致し方ないだろう。ちなみに鏡池の南側からも、門扉を開け放った大仏殿を遠望することができる。来年は、このあたりが混雑するだろうな(8/17記)。
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お盆旅行2010:東寺、醍醐寺、高麗美術館

2010-08-15 23:13:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
 お盆旅行3日目、8月15日は、夜の観光が主目的なので、昼間は無理をしないでおこうと思う。ちょうどご朱印帖が1冊終わってしまったので、新しいものを購入するため、東寺へ。ここは、いつものとおりなので省略。続いて、先々週の京都旅行で行けなかった高麗美術館を訪ねる。

高麗美術館 特別企画展I『浅川伯教・巧が愛した朝鮮美術』(2010年6月12日~8月15日)

 朝鮮に暮らし、彼の地の美術品と人と風土を愛した浅川伯教(のりたか、1884-1964)と巧(たくみ、1891-1931)兄弟を紹介する展覧会。会場に入って、観客が多いことに驚いた。この小さな美術館、私は好きで、年1、2回のペースで通っているが、かつては自分以外のお客さんの姿を全く見ないことも稀ではなかったのに。この数年、韓流ブームが韓流時代劇ブームに流れて、古い朝鮮の美術が身近になった影響もあるのだろうか。

 愛らしい水滴を並べた展示ケースで、おや、見覚えのある品だと思ったら、駒場の日本民藝館のものが、高麗美術館の所蔵品と取り交ぜて出陳されていた。どちらの所蔵品も、仲間が増えて、どことなく嬉しそう。小どんぶりほどもある粉青茶碗について、浅川巧は(茶の湯だけでなく)本来の用途=飯や汁椀としても使用できる、と語っていたそうだが、いや大きすぎるだろ、と微笑ましかった。でも好きだ。赤瀬川原平さんが著書『千利休』で「日本人には真似のできない、おおらかで無神経な作り」みたいなことを言っていたのを思い出し、なるほど、と思う。

 解説パネルで、浅川伯教が京城(ソウル)で敗戦を迎え、混乱の中、日本に引き揚げる下りを読みながら、突然、うかつな私は、今日8月15日が終戦記念日であり、韓国朝鮮人にとっては「光復節」(日本統治から解放された日、祝日)であることに気づいた。ああ、今日はこの展覧会を見に来るのに、最もふさわしい日だったかもしれない。浅川兄弟が景福宮内に開設した朝鮮民族美術館の所蔵品の運命、兄の伯教が帰国の際、朝鮮の友人に託した亡き弟・巧の日記と遺稿の束(朝鮮戦争の動乱の中を守り抜かれ、現物が展示されていた)など、いろいろと胸に迫るものがあった。

醍醐寺、霊宝館仏像棟特別公開(2010年5月18日~8月31日)

 続いて、バスと地下鉄を乗り継いで醍醐寺へ。「スルッとKANSAI 3dayチケット」大活用である。高野山→東寺→醍醐寺は真言宗つながり。私の実家も真言宗豊山派なので、祖母の供養にもなるだろう。前回見逃した五重塔と清瀧宮本殿をまず見に行く(あとでよく見ようと思って、境内をまっすぐ奥に進んだら戻れなかった)。

 金堂でご朱印をいただこうとしたら「西国三十三所のご朱印はここではありませんよ」と言われる。そうか、前回は特別拝観で、このお堂に准胝観音像がお出ましだったが、ふだんは有料拝観寺域の外、山下の女人堂においでになるのだった。せっかくなので、金堂ご本尊のご朱印をいただく。ただし、ご本尊の薬師如来は、現在、霊宝館仏像棟で特別公開中なので、お参りはのちほど。壇上では五大明王像が留守を守っていた。

 女人堂でご朱印をいただくとき、「先達さんとしてご朱印をいただくときは袈裟(首まわりだけに付ける半袈裟または輪袈裟と呼ばれるもの)をおつけなさいよ」とドレスコードに注意を受ける。すみません。以後、気をつけます。

 気を取り直して霊宝館へ。特別公開の情報はチェックしていたが、受付で「現在本館は閉館中で、公開しているのは隅の仏像棟だけです」と説明されると、あらためて、あれっそうなの?と思う。地図上で「仏像棟」の小ささを見て、一瞬落胆。しかし、全14点(醍醐寺サイトに展示目録あり)は優品揃いで見る価値あり。国宝仏画『閻魔天像』は平安時代の作と思えない。肉筆浮世絵みたい。醍醐寺サイトに「白い牛に乗った優雅な美男」って、いいんでしょうか、その説明。

 薬師如来像は、比較的、眼が大きく、赤と紺の二重円の玉眼を用いていることがはっきり分かる。別置された光背の天女がきれい。それから、平安時代の如意輪観音坐像がとてもよかった。片足踏み下げポーズなのだが、膝の組み方がのびのびして、少ししどけない。お顔立ちも人間的である。醍醐寺の創建は、准胝観音と如意輪観音を安置したことに始まる、と伝えられており、同寺にとっては特別な仏様の一であるそうだ。ふうん。2008年、落雷で焼失した上醍醐の准胝観音像もこんな感じだったのかしら?と想像をたくましくする。

 展示室内にいらした女性の方の説明では、この「仏像棟」は、基本用途は収蔵施設で、ふだんは公開しておらず、ときどき展示替えで本館に出すほかは、ここにある仏像を眼にできる機会は少ないそうだ。めずらしいものを拝見できてよかった。

 奈良に戻って、夜の部に続く(8/17記)。
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お盆旅行2010:なら燈花会と興福寺国宝館の夜間開館

2010-08-14 23:48:37 | 行ったもの(美術館・見仏)
 14日、高野山を下山し、南海電鉄→近鉄を乗り継いで、次の目的地・奈良へ。翌15日の夜に「春日大社万灯籠」「東大寺大仏殿万灯供養会」「大文字送り火」のハシゴを予定していたので、この日はホテルで休養のつもりだった。

 あ、でも「なら燈花会」は14日までで、こんなに足繁く奈良に来ていても一度も見たことないなあ、と思うと、ちょっとだけ訪ねてみることに。土曜の夜のせいか、浴衣姿の若い子が多い。万灯籠みたいな観光行事よりも、むしろ周辺に暮らす人たちの楽しみなのかも。猿沢の池をぶらつき、興福寺境内に入る。すると東金堂と国宝館で夜間拝観をやっていた。へえーめずらしい。何度も来ている興福寺だが、初めてのことなので、好奇心を起こして入ってみる。

■興福寺東金堂

 名宝の多い興福寺では目立たないお堂だけど、前回の参拝時(たぶん2008年11月か2009年3月)、若い男の子が熱心な解説係をつとめていて、ああ、ここのご本尊と脇侍もなかなかいいなあ、と思った記憶がある(文殊と維摩居士は別格で、むかしから好きだけど)。初めて夜間拝観の東金堂に入って、おやと思った。地味だと思っていたお堂が華やいで見えるのだ。薬師三尊の金色の光背が、暗い中で燃え上がるように美しい。維摩居士の台座にも金色が残っていることや、文殊菩薩の光背の彩色にも初めて気づいた。いつもより強い照明のおかげなのか、表情もはっきり見えた。

■興福寺国宝館

 国宝館は、2009年3月、爾後1年にわたる『国宝 阿修羅展』のため、阿修羅像が搬出される直前に拝観したのが最後。そういえば、今年3月1日にリニューアルしたんだったなあ、と思いながら、どれどれ、という軽い気持ちで、20数年来、通い慣れた入口に向かう(外観はあまり変わったように見えない)。白と臙脂色を基調とし、オシャレになった玄関にたじろぎ、中に入って唖然とした。なな、何、これ~。すっかり別天地に模様替えしていたのである。まず、滅多に出ることのなかった旧食堂遺構からの出土品(水晶玉など)が展示されている。これは嬉しい。それから旧山田寺の仏頭。この優品にふさわしい、広々した展示スペースで悠然と鑑賞できるようになった。

 国宝館の中央が巨大な千手観音像であるのは以前のとおり。その裏側の「回廊ギャラリー」は、以前は何もなくて、最近は金井杜道さんの撮影した写真パネルが飾られていたが、ここにもケースを設置して、小品(仏手など)が飾られるようになった。善哉。ちなみに、夜なのでよく分からなかったが、鉄扉を開け放った格子窓から冷気が入ってきていたのは、これまでの内装を維持しつつ、外に空調装置を取りつけたのかな。

 鎌倉肖像彫刻の優品で、非常に好きな法相六祖坐像の4体が出ていたのも嬉しかった。特に好きなのは善珠像。気難しさ丸出しで、国宝館リニューアルにも「ふん」と言いそうな顔をしている。天燈鬼、龍燈鬼も並んで、ケースなしの露出展示。小さな龍まで表情がよく分かるのは、これまでより照明が強いのかな。私は、龍燈鬼って自分の頭上に燈籠を載せているのだとずっと思っていたが、よく見ると、頭上に雲を生ぜしめ、その上に燈籠を載せているのね。龍燈鬼の頭と雲の間には、微妙な空間がある(つもり)なのである。新しい照明では、燈籠を支える白い雲がはっきりして、そのことが分かるようになった。

 千手観音像の向かって左側には、新しい展示空間が現出した。享保年間に被災した釈迦如来頭部の上部に、同じく焼け残りの化仏・飛天を配し、左右に帝釈天と梵天を配し、さらに外側が金剛力士像×2だったような気がする(記憶違いだったらご容赦)。2004年、芸大美術館の『興福寺国宝展』が同じような展示方法を試みていたと思うが、これは見事。で、帝釈天がどことなく「どや」顔に見える。

 ここまでの基本的な観客の導線は、旧国宝館とあまり変わらないが、少し窮屈になったような感じがする。それもそのはずで、最後に新たな展示空間(ステージと呼びたい!)を設け、なんと十大弟子立像(の6体)と、八部衆の全てが露出展示されているのだ(五部浄像だけはケース内展示)。えええ~『国宝 阿修羅展』の再現ではないか。この日の夜間開館は、ひっきりなしに人が出入りしていると言っても知れたもの。好きな仏像の前で、立ち止まり放題、見放題であった。あの東博の大混雑・大行列は何だったんだか。でも、阿修羅ファンの「お布施」が、新装国宝館にちゃんと還元されているようで嬉しい。

 阿修羅像の背景が、新装国宝館の基調である臙脂色なのもいい。肉身に残る赤い彩色を補うような効果をあげている。さりげなくいいポジションを占めていると思ったのが、十大弟子の羅睺羅像。ほかにも板彫十二神将とか銅造華原磬(銅製の鉦鼓を背中に載せた獅子)、銅造火袋扉など、ほとんどの名品が勢ぞろいしている印象。あれ?吉祥天は厨子だけだったか、お像もお出ましだったか、記憶がはっきりしないが…。興福寺のサイトを見ても、現在の展示が常設化するのか、ときどき展示替えをしていく予定なのかは、はっきりした情報がない。まあ、現在の構成が保たれているうちに、一度は見ておくことをおすすめする。

 以上、8/16記。お盆旅行は、まだ続きます。国宝館の夜間開館は8月14日で終了(よかった~)、東金堂は8月31日まで。

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お盆旅行2010:高野山宿坊の食事

2010-08-14 23:44:43 | 食べたもの(銘菓・名産)
初日の夕食。精進料理とはいえ、いつもの三食分くらいあった。食べすぎました。「何かお飲物をつけましょうか」と言われて「じゃ、ビールを」と条件反射してしまった。原料は麦だからいいのか。



2日目の朝食。ちゃんとお腹がすく不思議。がんもどきが美味。



ちなみに、お泊めいただいたのは蓮華院。旧名は大徳院。徳川家総菩提所として、将軍、大奥関係のほか、御三家(尾張・紀州・水戸)歴代の位牌をお守りしており、水戸家だけは神道ふうなのが興味深かった。そのため、蓮華院のご住職は神職を兼ねる伝統があったそうだ。

調べたら、近世の大徳院は、高野聖の元締めでもあった由。おおー鏡花ファンの私としては、こっちのほうが嬉しい(8/16記)。
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お盆旅行2010:高野山伽藍、金剛峯寺

2010-08-14 23:42:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
 ろうそく祭りから一夜明けて、8月14日は、宿坊で「朝のお勤め」に参加することから始まった。天井の低い、薄暗い本堂でご住職の読経(季節にあわせて盂蘭盆会経の由)を聴聞したあと、内陣に入り、ご本尊のお厨子の裏に並んだ徳川家や大名家のお位牌を見せていただいた。朝食後、高野山内の観光に出発。

 泊まった宿坊のすぐ隣りが、総本山金剛峯寺の寺域だった。この「金剛峯寺」という名称、Wikiによれば「元は高野山全体の称だが、現在金剛峯寺と呼ばれるのは明治2年(1869年)に2つの寺院が合併したもの。もと青巖寺(剃髪寺)と呼ばれた寺院」だそうだ。納得。朝から、大勢の団体さんが次々にやってくる。少ない個人観光客は、わりとほったらかし。自分で説明板を探して読まないと、見どころや沿革がよく分からない。そこで、ときどき、団体さんのガイドにすり寄って、一緒に説明を聞いてみる。日本最大の石庭「蟠龍庭」をはじめ、石組も伽藍も周囲の樹木も、気宇壮大で気持ちがいい。庫裏(台所)の広さにも感銘。でも、浄土真宗系の柄の大きさとは、どこかが違うように思った。

 続いて、いわゆる大伽藍(壇場)へ。広さとデカさが、常識的な日本人のスケールを完全に裏切っていて、むしろ韓国や中国の山岳寺院を思い出させる。さまざまな時代の建築が並んでいるが、一目で惹かれたのは不動堂。さすが国宝。大地に添うような、低く平たい屋根の作りが奥ゆかしくて美しい。不動明王と八大童子の住処だったお堂である。

 大門から引き返し、昨夜と同じ道をたどって、奥の院に向かう。やっぱり、もう一度、昼の光の中で風景を確かめておこうと思って。総本山金剛峯寺で購入した冊子(赤本 高野山)が威力を発揮。参道の見どころとなる墓碑や供養塔の写真が載っているので、これを頼りに、昨夜見逃したいくつかを探す。

 武田信玄・勝頼の墓碑は奥の院に向かう右側、参道のすぐ脇にあるのだが、昨夜は、ろうそく配布のテントの影になっていた様子。上杉謙信・景勝の霊屋は、参道の左側、ちょうど信玄の墓碑を見下ろす高台にある(川中島の布陣みたいだ、と思ってしまった)。あと、「高麗陣敵味方供養碑」も暗闇の中では分からなかった。異国風の多重石塔が目印。

 御廟橋を渡ったあとに、陸奥宗光の供養塔があるというので、これも見ていこうと思い、写真を頼りに探す。なんとか見つけることはできたが、案内板など一切なし。この山域では、陸奥なんて、まだまだ小物なんだな。

 宿で荷物を拾い、徳川家霊台を経て、女人堂まで歩いてバスに乗る。楽しかったな、高野山。「赤本」を見ると、まだ行き逃した見どころもあるみたいなので、また違う季節に来てみたい。

 この日の記事続く(8/15記)。
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お盆旅行2010:高野山ろうそく祭り

2010-08-13 23:58:07 | 行ったもの(美術館・見仏)
 8月13日、14時過ぎに高野山内に到着し、多少の観光はできるかと思っていたが、霊宝館で2時間以上遊んでしまったので、再び宿(宿坊)に戻る。今夜は奥の院のろうそく祭り(萬燈供養会)を見に行くため、17時半に夕食を用意してもらっていたので。

 「精進料理」と聞いていたが、ボリュームあるお膳で満腹。このまま寝転んで休みたいところ、再び出かける。食堂や土産物屋の店先に、長い竹串を通したろうそくが用意され、お祭りに向かう人波に「ろうそく、どうぞ~」と声がかかる。勝手を知ったお客さんが、ごそっと掴み取っていくのにびっくり。無料配布なのだ。私も真似をして、10本くらい掴み取っていく。

 19時少し前に、高野山奥の院の入口である「一の橋」に到着。参拝客はここで止められる。入口のテントでも、やはりろうそくの無料配布が行われている。準備ができるまで、橋を渡してくれないのだ。予定の19時になると、少しずつ参拝客を流し入れる。

 一の橋から奥の院の御廟までは一本道らしい。あたりは鬱蒼とした杉林。道の左右には苔むした大小の石塔が並んでいる。というのは、今朝(8/14)明るい中で奥の院を見た上で書いていること。このときは、初めて高野山奥の院を訪ねるというのに、周囲は真っ暗で何も分からなかった。

 最低限の街灯はあった(と思う)。参道の左右には幅20センチほどのアルミホイルが延々と敷かれ、その下には、発泡スチロールか何か、竹串の通る柔らかい素材が敷かれていた。既に火の付いたろうそくが点々と灯り、参道の続いていく先を示している。参拝客は、このアルミホイルの上に、自分のろうそくを差し、明かりを増やしながら、奥の院へと進むのである。

 頼りになるのは、観光案内所で貰った縮尺のはっきりしない地図のみ。10本のろうそくをどこで差すべきか悩む。始めは倹約をしていたが、ところどころ、参道の途中のテントでもろうそくをいただけることが分かり、気持ちに余裕が出た。小田原北条氏の廟所前で1本(関東人だし)。平戸松浦氏の廟所前でも1本(むかし平戸に行ったので)等々、気まぐれで差していく。

 しかし、ろうそくの光は限られた範囲しか届かないので、周囲の様子を見定めるのはかなり困難。観光地図に載っている武田信玄墓や上杉謙信廟は気づかないまま通り過ぎ、いよいよ御廟橋を渡って、燈籠堂まで来てしまった。

 天井に多数の燈籠を吊るした燈籠堂では、僧侶たちが入場し、法会が始まるところだった。しばらく読経の声に聞き惚れる。西洋人の姿が多かったけど、キリスト教の儀式ほどメリハリがないので、面白くないんじゃないかなあ、と余計な心配をする。ときどき高く打ち鳴らされる法具の鐘(鈴?)の涼やかな音が美しかった。

 法会の終わり頃まで聴聞して、外に出ると、人波はすっかり引いていた。早めに切り上げて、高野山に泊まらず、その日のうちに下山する人が多いようだ。終バスは21時と言っていたけれど、その時間なら大阪まで帰れないこともないと思う。

 私は徒歩で宿坊に戻る。クーラーなしで、窓を少し開けたまま就寝(8/14記)。

※追伸:写真は後日UP予定。
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