今日は長崎に原爆が投下され64回目の日を迎えます。
原爆投下については米国は未だに必要悪だと言う説を変えません。
原爆により戦争の早期終了が出来幾万人もの命が救われたと言う論法です。
確かにその一面もあったかと思いますが、投下の主たる目的は違う所にあったと
思われます。
そもそも米国の「マンハッタン計画」は台頭するソ連邦に対し優位に立つため早急な
核武装が急がれたと言う世界の状況がありました。
その為開発した原子爆弾を実際に使用する必要がありました。
それも敗色濃い日本の降伏前に使用するギリギリの所まで迫って居ました。
まず8月6日に廣島に8月9日に長崎に原爆投下を行いました。
広島に落とされた「リトルボーイ」はウラン235でTNT爆薬1万2500トン分の威力を持っていました。
更に大きさも重さも一回り大きい「フトッチョー」ファットマンと言われる原爆が
長崎に落とされました。
これはプラトニューム239を使用しTNT火薬の2万2000トンの威力があります。
戦争の終結を急ぐだけだったら何故この様な型も材料も異なる原爆を落とさねば
ならなかったか?
それは間違いなく、原爆の実験に広島長崎が選ばれた事です。
原爆1コ分で当時のB29爆撃機7000機分のTNT爆弾に匹敵すると言われ
どれ程の破壊力か分かります。
地上は、熱線。衝撃波による爆風それに放射線地獄の再現です。
廣島では死亡者28万人長崎8万人とか言われますが確かな資料も消失して分かりません。
言われて居るデーターでは広島14万人長崎7万人となっています。
是は両市の人口密度や地勢によるものと言われ、廣島は比較的即死の方々が多く、
長崎は熱線や放射線で生きたまま生殺しの状態の方々が多かったとも言われます。
これは使用されたウラン235とプラトニューム239の違いにもよると言われ、
米軍は終戦後ABCCと言う原爆調査機関を両市に持ってきて資料収集を行いました。
いわばモルモットとなった市民から原爆のデーター集めをしました。
死亡者数は当日死亡した数で、被爆者はその後1ケ月の間にボロボロ亡くなり、 その
正確な数は不明と言われて居ます。
1950年に日本全国の被爆者は25万人と言うデーターがありますが是もアヤフヤで
信用出来るものではありません。
又國が取り決めた被爆の条件で被爆者認定問題が出てきました。
声なき民は、高齢化と取り憑かれた病魔に次々と犠牲になっていきます。
その後原爆症訴訟が國を相手に起こされ國の連敗が続きその行方が注目されて居ました。
先般訴訟を起こした306名については全員救済と言う事で麻生首相と厚労相が合意しました。
これもなんか選挙対策の一環みたいで余り喜んでばかりは居られませんが、マア、
英断には敬意を払いたいと思います。
兎に角あの時の「ピカドン」が半世紀以上経った今でも人々を苦しめ続けて居ると
言う事を世界に向かって叫び、核のない世界が一刻も早く来る事を熱望します。
原爆投下については米国は未だに必要悪だと言う説を変えません。
原爆により戦争の早期終了が出来幾万人もの命が救われたと言う論法です。
確かにその一面もあったかと思いますが、投下の主たる目的は違う所にあったと
思われます。
そもそも米国の「マンハッタン計画」は台頭するソ連邦に対し優位に立つため早急な
核武装が急がれたと言う世界の状況がありました。
その為開発した原子爆弾を実際に使用する必要がありました。
それも敗色濃い日本の降伏前に使用するギリギリの所まで迫って居ました。
まず8月6日に廣島に8月9日に長崎に原爆投下を行いました。
広島に落とされた「リトルボーイ」はウラン235でTNT爆薬1万2500トン分の威力を持っていました。
更に大きさも重さも一回り大きい「フトッチョー」ファットマンと言われる原爆が
長崎に落とされました。
これはプラトニューム239を使用しTNT火薬の2万2000トンの威力があります。
戦争の終結を急ぐだけだったら何故この様な型も材料も異なる原爆を落とさねば
ならなかったか?
それは間違いなく、原爆の実験に広島長崎が選ばれた事です。
原爆1コ分で当時のB29爆撃機7000機分のTNT爆弾に匹敵すると言われ
どれ程の破壊力か分かります。
地上は、熱線。衝撃波による爆風それに放射線地獄の再現です。
廣島では死亡者28万人長崎8万人とか言われますが確かな資料も消失して分かりません。
言われて居るデーターでは広島14万人長崎7万人となっています。
是は両市の人口密度や地勢によるものと言われ、廣島は比較的即死の方々が多く、
長崎は熱線や放射線で生きたまま生殺しの状態の方々が多かったとも言われます。
これは使用されたウラン235とプラトニューム239の違いにもよると言われ、
米軍は終戦後ABCCと言う原爆調査機関を両市に持ってきて資料収集を行いました。
いわばモルモットとなった市民から原爆のデーター集めをしました。
死亡者数は当日死亡した数で、被爆者はその後1ケ月の間にボロボロ亡くなり、 その
正確な数は不明と言われて居ます。
1950年に日本全国の被爆者は25万人と言うデーターがありますが是もアヤフヤで
信用出来るものではありません。
又國が取り決めた被爆の条件で被爆者認定問題が出てきました。
声なき民は、高齢化と取り憑かれた病魔に次々と犠牲になっていきます。
その後原爆症訴訟が國を相手に起こされ國の連敗が続きその行方が注目されて居ました。
先般訴訟を起こした306名については全員救済と言う事で麻生首相と厚労相が合意しました。
これもなんか選挙対策の一環みたいで余り喜んでばかりは居られませんが、マア、
英断には敬意を払いたいと思います。
兎に角あの時の「ピカドン」が半世紀以上経った今でも人々を苦しめ続けて居ると
言う事を世界に向かって叫び、核のない世界が一刻も早く来る事を熱望します。