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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

幸福な死

2014-11-26 20:26:14 | 読んだ本
カミュ/高畠正明訳 昭和51年 新潮文庫版
私の持ってるのは、昭和58年の16刷で、たぶんそのころ読んだんだろうけど。
当時の私が、なにをどうおもしろいと思って、こんなものを読んでたんだかは、いまとなっては計り知れない。
まあ、たぶん『異邦人』がムチャクチャおもしろいというか、ツボにはまったというか、刺激的だったんで、同じ作者のものを追っかけたんだろうけど。
タイトルからして魅惑的だよね、幸福な死って何?って思うぢゃない、哲学とかに興味もちはじめた青二才としては。
この『幸福な死』は、カミュ自身が発表したものぢゃなくて、没後に見っかた原稿を、周囲がむりくり(?)刊行したものらしい。
なので、残された原稿とか、それに付随するメモとかをもとに、「ヴァリアントならびに注(ノート)」っていう膨大な注がふられてて、本文読んでてもあちこちに注を示すナンバーがあって、はなはだ読みにくい。
それはしょうがないとして。
この文庫では巻末におかれた、「『幸福な死』の成立について」とか、解説を読めば、「異邦人」へのつながりなんかがあるらしい重要さはなんとなくわかるんだけど。
「第一部 自然な死」と「第二部 意識された死」の二部から成ってる。
第一部は、ある登場人物がべつの登場人物を殺しちゃう。
まあいいや、不条理系の元祖か本家か、神みたいな存在か知らないけど、とにかくそういう人の書いたものだから、常人には分からない論理でも全部肯定しちゃう。
第二部は、わりとふつうで、主人公らしき人も魅力的な女性たちに囲まれてたりして、一見どこにも死の匂いはしないんだけど。
読み進んでくうちに、やがて「あー、このひと、死んぢゃうんだ。うーん、つらいな、それは」みたいなものが浮かびあがってくる。
だからどうしたということのほどのもんはないんだけどね。
初めて読んだときの私が、きっと「死」というものについて魅惑的に感じていたのは、容易に想像できるんだけど。
いま読み返してみると、また違ったものを感じてしまうのは、時が流れた結果として、しょうがない。
なんていうかねえ、近ごろでは、若いときと違って、「死」というものをリアルに感じるんだ。
病を患ったり、身体の不調に直面したりすると、「ホントに、このまま死んぢゃうのかも」という感覚に襲われるんだよね。
本書の第二部にも、
>自分がこのままこうした無意識の状態で、目の前のものを見ることができなくなって死んでしまうのかもしれないという不安が、かれの想念に浮んできた。
なんて箇所があるけど。
若いころは比喩というか観念的だったと思うんだけど、このトシになると、ホントに死んぢゃうかも、死んぢゃったらどうしよう、って現実的なものになっている。

コメント
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