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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

ブルース・リー

2019-10-20 17:49:48 | 四方田犬彦

四方田犬彦 二〇一九年七月 ちくま文庫版
副題は、「李小龍(レイシウルン)の栄光と孤独」。
ちなみにレイシウルンというのは粤(えつ)語で、北京官話とはちがうんだそうだけど、とにかくこの粤語ってボキャブラリーは本書にたくさん出てくるんで、広東語のことだと理解しないと読みにくい。
最近になって、ブルース・リーってのはすごいんだ、「燃えよドラゴン」がなかったら世界における香港映画というかアジア映画のいまはないんだ、みたいな論評に複数個所で触れたもんだから、気になってたところに、この文庫が出たんで、読んでみることにした。
もちろん、私はブルース・リーについては、アチョーってキックやパンチを繰り出す何本かの映画を観たことでしか知らないんで、まずは彼はアメリカ公演とかしてた粤劇の名優を父にもち、それで赤ん坊のころから子役としてたくさんの映画に出てたってことにおどろかされた。
十代では、街で喧嘩ばかりしてたってのは、なんとなく想像つかないでもないが、チャチャチャが好きで踊るのが上手ってのはちょっと意外。
で、誰もが知ってる、私でも知ってる、主演映画ってのは四本。
1971年 『唐山大兄』 The Big Boss 『ドラゴン危機一発』
1972年 『精武門』 Fist of Fury 『ドラゴン怒りの鉄拳』
1972年 『猛龍過江』 The Way of the Dragon 『ドラゴンへの道』
1973年 『龍争虎鬥』 Enter the Dragon 『燃えよドラゴン』
あと、他人が原案とはまったく異なる形でつくっちゃった、1978年『死亡遊戯』Game of Death ってのもあるわけだが、これについては
>この作品が李小龍のフィルモグラフィのなかで、最後の十数分を除いてほとんど意味も価値ももっていない(略)(p.320「李小龍の行動様式」)
とケチョンケチョン。
やっぱ子役時代のことなんかよりは、主演作品についての解説にしか私なんかは関心がないわけだが、
>『唐山大兄』の功夫場面から窺い知ることができるのは、韓英傑と李小龍のコレオグラフをめぐる熾烈な覇権争いが、場面場面においてなされてきたことの痕跡である。京劇出身で、ときにアクロバットをも辞さず、優雅な舞いを披露したり短いショットを巧みに編集して、観客に驚異を体験させようとする韓英傑に対して、李小龍はどこまでも、実際の武道家として長回しに拘泥し、現実に生起するアクションの身体的現前をそのまま映像として記録することにより関心をもっていた。(p.218「『唐山大兄』――移民労働者」)
なんて専門的な解説をされちゃうと、おおっと思うし、どっかで知ったかぶりして使いまわしてしまいそうな気分になる。
功夫を駆使して戦ってる場面を私なんかはカッコええなあぐらいにしか見てないないんだが、
>『唐山大兄』では武闘のほとんどが屋外の開かれた空間でなされていた。『精武門』で舞台となるのはすべてが空間的に限定されたセットであり、それはかなり厳密にコレオグラフを準備しなければならないことを意味している。(略)
>韓英傑による人物配置と転調のぐあいは見事であり、幾何学的な構図をもつとともに豊かな弾力性に満ちていて、次々と表面は変化してゆくものの堅固な構造が見てとれる。(p.229-231「『精武門』――抗日ナショナリズム」)
みたいに「武術指導」ってものの解説されると、そうかあ、ただカメラまわしてりゃ撮れるものが映画ぢゃないよなって、あたりまえのことに気づかされる。
つづく作品では、自分で監督をしたこともあって、それまでの主流というか伝統的というかの演出からはさらに離れる。
>『猛龍過江』では韓英傑と羅維の軛から解放されたことが手伝って、これまで以上に自由にして多様な功夫技を見ることができる。(略)
>また彼は韓英傑風のアクロバットをどこまでも拒絶する。唐龍が天井のシャンデリアを蹴り付けて割るショットが存在しているが、そこで李はきちんと床をカメラに収めている。それはこの超人的な演技がけっしてトランポリンを用いた人工的なものではないことをされげなく物語っていて、京劇の流れを組む装飾的な誇張を排除しようとする姿勢がそこからも窺える。(p.252-253「『猛龍過江』――西欧との対決」)
という調子である、そういえば昔「ほかはみんな早回しだけど、ブルース・リーはちがうぜ」ってブルース・リー好きに教わったような気がするが。
『ドラゴンへの道』は私もいちばん好きなんだけど、この映画のなかでは、
>彼が最終的に理想としてきた截拳道の自由なあり方が、ここにみごとに実現されているといえる。(p.253同)
ということになってるらしく、やっぱブルース・リーのいいとこでてるのかなと思う。
ブルース・リーは自らの功夫を、ひとに教えるだけぢゃなく、本にして残してもいるそうで、『截拳道』という1998年の彼の3冊目の書物にその思想がのってるらしい。
発行が1998年なのは、遺稿を研究者が編纂したからで、もとは1975年に『截拳道への道』というなまえで一度出されたものらしい。
そのなかで、
>武道の究極は確実な型をもたないことであると、李小龍は繰り返し説いている。特定の型が権威として踏襲されたとき、そこに生じるのは頽廃である。(p.170「李小龍の著述活動」)
と説いてるらしく、実は自由なストリートファイティングが目指すところだったんぢゃないかということのようで、やっぱ若いときに街角でリアルファイトしていただけのことはあると妙に感心してしまう。
それはそうと、戦いの場面だけぢゃなくて、
>李小龍のフィルムがいかに中国人としての、また英領植民地に育った香港人としての苦悩に満ちているかという問題に関しては、本書の基調となる重大な主題なので(略)(p.25「李小龍以前と以後」)
とか、
>反体制運動とエスニック集団の異議申し立て運動の象徴としてのブルース・リー。(p.364「李小龍の後に」)
とかって、世界中でいまもブルース・リーが支持されている理由についても論述されてて、なるほどなーと思うんだけど、やっぱ私は映画観るときはむずかしいこと考えたりしないんである。
さ、ひさしぶりに何か観てみるかな、やっぱ『ドラゴンへの道』かな、『燃えよドラゴン』の最初の、Don't think,feel!のとこも好きなんだよな。


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