古本市で、何気なく買った清張さんの本から、病みつきになって、これで、何冊目?
でも、これが、今の私の興味に一番FITした本だった。
AMAZONの古本で、100円だったが、元は、1984年の発行で、2100円。アベノセンタービルの天地という古本屋で、1500円で取引され、巡り巡って私の手元に今ある。
本の題名は、すごく学術的に見えるが、テレ朝か何かの企画で、清張さんが、空海や、密教に関係のありそうな中国と、インドの地を、巡った写真付き紀行文といってよい。
ただ、その中に、清張さんの持論が、たっぷり披歴されており、とても興味深く読める。
面白いのは、当時の中国から仏教や、密教を伝えた人々を、リアルに、客観的に見つめていることだ。
例えば、唐招提寺の鑑真さんは、中国ではほとんど無名。記録にものほとんど残っていないという。確か、名僧を招聘したのではなかったか?
6回目の渡日でやっと成功したが、視力を失ったことになっているが、東夷伝が伝えるのみで、大げさに書いただけではないか?
鑑真さんの渡日の話は、その他の日中の史料を研究した結果、虚構と断じるのである。
空海の能力の高さは、認めているが、唐に行ったのも正式な遣唐使として行った訳ではなく(これは知られている)、また密教を持ち帰ったのも、偶然に近いとする。その他の仏教は、既に日本で知られており、一方、最澄が、天台宗を学ぶ明確な目的を持っており、日本でまだ誰も知らなかった真言宗に飛びつき、正式な遣唐使ではなかったから、すぐに帰国し、日本に真言宗を広めることができたと分析する。
さらに、当時の密教は、まだ確立されておらず、道教と同レベルの呪術的なものと、中国ではとらえられていたという。
インドに行くと、ますます話は、展開。まず、私などとは違うのが、ペルシャ、キリスト教等、インドの西方の宗教や文化や言語との比較がそこここでなされることだ。
私などは、インドから東という観点でどうしても見てしまう。
そして、極めつけは、インドにおける密教の位置づけに関するお考えだ。
「中国で成立した密教が、この『ウパニシャッド』の師弟口伝という「秘密の教義」からその継承手段のヒントを得たことは容易に想像がつく。その奥伝の師資相承的な形式は、やはり善無畏や龍樹らが中国へ持ち込んだものを思われる。
日本で「密教」は「顕教」(仏教の既成諸派)に対蹠しての謂だが、「密教」の原形は「秘密の教義」にある。密教を「秘密仏教」などど解するのは誤りである。」
かなり大胆な言いようである。
「『大日経』は七世紀半ごろにナーランダー寺でつくられた可能性が強く、それを補強した『金剛頂経』がそれよりやや遅れて同寺でできたらしい。してみると仏教とバラモン・ヒンドゥ教とを合成してもの、仏教でもなくバラモン教・ヒンドウ教でもない「第三のインド宗教」が、小規模ながらナーランダー寺の学僧によってつくられたと見るべきであろう。
その「第三のインド宗教」がインドにひろがらなかったのは復興したヒンドゥ教の猛威のために仏教も消滅したくらいだから、仏教よりももっと狭い範囲の中でわずかに存在した「第三のインド宗教」は、壊滅した。そうしてそれが八世紀の壊滅直前に中国へ輸出されたのである。」
こう見て来ると、密教は、仏教の一部であるという考えを、根本から見直さざるを得なくなるのである。何と!
チベットの密教の様子をご覧になった後のお考えをもお聴きしたかったが、流石に高山病には弱く、今回の取材でも、ラダックには、同行しなかったそうだ。