『自由と秩序-競争社会の顔』大阪大学名誉教授猪木武徳氏。
経済は、自由がよいか、秩序がよいか。
シンプルにその構造を読み解いています。特に競争のもたらす弊害も含めて。
同氏は、計画経済でも、市場経済でも、それら両極端ではなく、「品位とユーモアを維持できるようなバランス」が必要であると述べられています。
要旨がうまく紹介されています。
***********朝日新聞2022.6.16一部抜粋*******************
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15325386.html
20世紀に入り、社会や経済を管理・統制するという考え方が支配的になった。その極端な形が社会主義国の計画経済だ。
市場での競争が封じ込められ、すべてが中央エリートたちの政治権力によって決定されるようになった。
すると生じたのは、しれつな権力闘争だった。市場経済での競争とは異なり、政治の世界の競争は、公正さの確保が難しい。ゆがみが大きくなり、旧ソ連型の社会主義は破綻(はたん)した。
では、経済競争は万能なのだろうか。
市場経済のもとで、人間は合理的な行動を選択し、経済効率が達成される。合理性と効率をゴールとする戦いだ。
著者はしかし、人間はそのような単なる「生き残るため」の競争心のほかに、「遊びへの欲求」から生まれてくる競争心も持っているという。そして、心を広げてくれる遊びへの欲求を無視した競争は、危険を含むと説く。
どういうことか。
競争は、勝ったときの報酬が刺激的すぎると、不正やゆがみを生み出す。それは競争というシステムの長所を、逆に致命的な欠陥にしてしまうかもしれない。
たとえば、評価や報酬の制度が、人間の嫉妬を燃え上がらせるほどに極端である場合。テニスやゴルフなどのスポーツの世界では、1位と2位の賞金差が大きい。選手が必死にプレーせざるを得なくなり、それを観客は楽しむ。だが差が大きければ大きいほどいいというわけではなく、大きすぎるとルール違反が起きやすくなる。共謀して八百長試合をして、こっそり賞金を山分けするという不正もあった。
競争は本来、目的を持つものだ。にもかかわらず、激しい競争に勝つこと自体に満足を覚え、競争が終了したときに、目的が消え去ってしまうこともある。競争の自己目的化だ。
大学受験では、とにかく難しい大学を受験することだけが目的となり、合格後に「合格したい」という欲望が満たされ、学ぶ意欲を失ってしまうこともある。
一党独裁の社会主義も、その反対の市場競争一本やりのシステムも、それだけで秩序と平和をもたらすことはない。どんな社会的システムも、折衷的なものにならざるを得ない。
「品位とユーモアを維持できるようなバランス」。競争社会では、それをどう保つかが問われるのだ――。
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