北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

日本人の生き物感

2006-05-16 23:10:41 | Weblog
 今日の札幌は日中の気温が25℃まで上がったのだそうです。急に初夏の陽気になられても体がついていきません。

 帰りの道すがら、発寒川の横を歩いていると夜桜がきれいでした。今がまさに北海道の桜の満開です。

【動物と人間の関係】
 先に紹介した渡辺京二著「逝きし世の面影」(平凡社ライブラリー)を読み進めていて、さらに面白い章に出会いました。「生類とコスモス」という章がそれです。

 ここで著者は江戸末期から明治時代に外国人の目に映った風景として「日本の馬が調教されていない」ことの驚きを記しています。

 西洋人にとって馬というものは幼いときからしっかりと調教され、訓練され、牡馬は去勢されておとなしくした上で人間の役に立つ動物として認識されていたのでした。

 これに対して当時の日本では、馬に一人で騎乗するのは武士の特権であるばかりかその武士でさえ多くは馬丁に口綱を曳かせて乗っかっているばかりであったので、騎乗技術が発達せず、それゆえ馬も一人で乗られるように調教されるという事が考えられなかった、というのです。

 調教されていないという事は、すぐに怒り、噛みつき暴れ回り、あたりを蹴散らすことがごく普通の事だったということです。

 馬には馬方が手綱を引いて前を歩けばそれについて行くように慣らすだけでよく、それくらいであれば飼い主も面倒な調教などせずに済んだからです。

「実際、馬は楽をしていたのである。彼らは十分にあまやかされていた。癖が悪いというのは、十分調教されぬままに本来望んでもいない仕事をさせられるのだから、したい放題をするのである」と著者は指摘するのです。

 東北を一人旅したイザベラ・バードは「…人々は馬を大変こわがっていてうやうやしく扱う。馬は打たれたり蹴られたりしないし、なだめるような声で話しかけられる。概して馬の方が主人より良い暮らしをしている。おそらくこれが馬の悪癖の秘密なのだ」と書き、日本の馬があまやかされて増長しているという印象を書き記しています。

 このような外国人の見方に対して著者は、それこそが人間とそれ以外の動物を質的に断絶させる西洋キリスト教による考え方である、と指摘するのです。

「徳川期の日本人にとっても、動物は確かに分別のない畜生だった。しかし同時に、彼らは自分たち人間をそれほど崇高で立派なものとは思っていなかった」
「草木国土悉皆(しっかい)皆成仏という言葉があらわすように、人間は鳥や獣と同じく生きとし生けるものの仲間だったのである」

 誤解のないように言うと、この章で筆者は「私の関心は日本論や日本人論にはない」と言い切っています。筆者の関心はあくまで「近代が滅ぼしたある文明の様態にあり、その個性にある」としています。筆者は当時の日本人の考え方と近代を経験した後の現代人との間には、心の断絶があると考えているのです。

 しかしやはりこれらの事は現代に生きる我々の心性にも残り火のように消えずに残っているある種のノスタルジックな感傷を湧き起こすでしょう。

 ついついペットを猫かわいがりしてしまう私たち、子供を叱る事が出来ずに放任状態になってしまう親たち、動物はおろか、花や機械にまで話しかけるお年寄りたち…。

 私たちはどこかで「植物も動物もみな同じ生き物」、「自分以外のものを見下してはならない」という心根を持っているように思うのです。だからこそそういう精神に反して、居丈高で偉そうに振る舞う人間に嫌悪感を抱くのでしょう。

 私は近代化された今を、世界を相手にして暮らさなくてはならない我々日本人は「日本人で行くかグローバルスタンダードで行くか」という二者択一の生き方ではなく、世界を相手にするときは世界標準で考え行動し、日本で生きるときは日本人の心性を大事にすると言うダブルスタンダードがあって良いように思うのです。

 大事な事はこの両方の感性を持ちながら、これを時と場所と場合によって使い分ける能力を身につけなくてはならないということだと思うのです。

 機械にすら生命を感じる日本人だからこそ鉄腕アトムや鉄人28号のようなシンパシー溢れるロボットの物語が描けるのでしょう。その感性を誇りにすればよいのではないでしょうか。

 やはり私の場合は「失われた文明の有り様」よりは「日本人論」に興味を持ってしまうようです。

 日本人ってどういう民族なのでしょう?

コメント (2)
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