今日は早朝から東京出張です。最近エア・ドゥに乗ると必ずと言って良いほど機材トラブルに遭遇するのですが、朝新聞を広げてびっくり。
なんとエア・ドゥの飛行機の主翼に、バードストライクという鳥が突っ込んで機材を痛めるアクシデントで穴が空いて欠航との事。
やっぱり今日もエア・ドゥとの相性が悪いというのは、ご先祖様が「おまえはエア・ドゥに乗るな~」と囁いているような気がしてきました。う~、なむなむ。
【『逝きし世の面影』完読】
電車に飛行機と移動時間が長いのは読書に最適です。ときどきは気を失いながらも読めるときは読めるのでページは進みます。
あまりに進みすぎて読むという至福の時間を楽しんでいた『逝きし世の面影』をとうとう読み終えてしまいました。
江戸末期から明治期にかけての、外国人の目に映った日本という国、いや徳川時代という完成された文明に対する、涙が出るような暖かい眼差しともお別れです。
この本の最終章は「心の垣根」という章です。
外国人の目に映った当時の日本は「人々を隔てる垣根は低かった」国でした。人々の顔は過度に機嫌が良く、暗い顔をしているのを見た事がない、とさえ書いているものもあります。
「彼ら(日本人)は面白い話が好きで、よく冗談を言う。路宇津舎は何かするときは必ず歌を歌う。また例えば櫓をこぐとか、思い荷をあげるといったような歌の調子に乗る仕事なら、皆が歌うのである」とロシア人で日本で囚われの身となったゴローブニンは書き記しています。
しかし多くの外国人が賞賛し、褒め称える完成された江戸の文明は滅びる運命にもあった、と著者は感じています。
それはまず徳川時代という幕藩制が制度的矛盾によっていずれは崩壊すべく運命づけられていたという点、そしてもう一つは世界の資本主義システムが最後に残った日本をも組み込もうとしていたという歴史の流れに読み込まれます。
そして「その後に続く明治という時代を通じて、なぜ日本人がこの完成された
よき美しき文明と徐々に別れを告げねばならなかったのか」ということについて、著者はいくつかの考えを述べてくれます。
日本をさんざんに褒めてくれたオールコックもこと道徳や精神の質に関しては「日本人の賞揚すべき美徳とは社会生活の次元にとどまるもので、より高次の精神的な志向とは無縁のものだと言いたかった」のではないか、と著者は考えています。
「観察者たちは日本の庶民のうちに数々のよきもの美しきものを発見した。だが同時に、彼らのあっけらかんとした表情のうちに、なにか野卑なもの、ほとんど白痴制にいたりかねないものを嗅ぎつけてもいた」
「ある種の子供っぽさ」を感じていたのだとも言えます。
著者は「おのれという存在にたしかな個を感じるというのは、心の垣根が高くなるということだった」と書きます。
日本人同士では心の垣根が低いので、(まあおれもあいつならそれくらいのことはするだろう)という観念は、西洋人の感覚では個人同士のマナーやルールを逸脱しても平気な社会の所産だったというのです。
個人の社会という、心の垣根の高さに疲れた人たちは日本人の心の垣根の低さに癒されて惚れ込んでしまったのだ、と著者は言います。
そしてこの心の垣根の高い個人の社会こそ、「個である事によって、感情と志向と表現を、人間の能力に許される限度まで深め拡大して飛躍させうるということ」であり「オールコックやブスケは、そういう個の世界がかのうならしめる精神的展開がこの国には欠けていると感じた」のだと著者は指摘するのです。
文明は断絶しても、この子孫である現代の私たちはどうでしょうか。心の垣根が高すぎて疲れてはいないでしょうか。だから垣根の低い無償の笑顔に接するときに癒されるのではありませんか。
しかし同時にそのような個の世界で生きざるを得ないという決心をしたからこそ、近代工業社会を乗り切り、その中で世界の中に一定の存在感を示せたのでもあるのでしょう。
日本人が心のなかのDNAに従うように日本人であろうとするときに、子供っぽく、野卑に陥っているということはありませんか。
帰国子女が日本に感じる一種我慢のならない雰囲気も、個をあまり真剣に考えない風潮と無縁ではないように思います。
しかしそれでも個の尊重を絶対視することには拒否感を感じている人も多い事でしょう。西洋の個に対する考え方も唯一絶対ではないのです。
今の私たちの心の垣根はこの西洋と江戸時代の日本人のそれらの中間に位置しているのでしょう。しかしそれがどのくらいどちらかに近いと思うかのバランスには個人差が広がってもいるようです。
しかし今日のグローバルスタンダードを一つの価値標準と思いながらも、思いきり対極に位置する、今は滅びてしまった江戸時代の日本文明を知る事は、心のバランスを保つ上で必ず役に立つに違いありません。
まだまだ文明は滅びても、DNAとしてときどき表に出る感覚にその名残が伺えるのですから。
なんとエア・ドゥの飛行機の主翼に、バードストライクという鳥が突っ込んで機材を痛めるアクシデントで穴が空いて欠航との事。
やっぱり今日もエア・ドゥとの相性が悪いというのは、ご先祖様が「おまえはエア・ドゥに乗るな~」と囁いているような気がしてきました。う~、なむなむ。
【『逝きし世の面影』完読】
電車に飛行機と移動時間が長いのは読書に最適です。ときどきは気を失いながらも読めるときは読めるのでページは進みます。
あまりに進みすぎて読むという至福の時間を楽しんでいた『逝きし世の面影』をとうとう読み終えてしまいました。
江戸末期から明治期にかけての、外国人の目に映った日本という国、いや徳川時代という完成された文明に対する、涙が出るような暖かい眼差しともお別れです。
この本の最終章は「心の垣根」という章です。
外国人の目に映った当時の日本は「人々を隔てる垣根は低かった」国でした。人々の顔は過度に機嫌が良く、暗い顔をしているのを見た事がない、とさえ書いているものもあります。
「彼ら(日本人)は面白い話が好きで、よく冗談を言う。路宇津舎は何かするときは必ず歌を歌う。また例えば櫓をこぐとか、思い荷をあげるといったような歌の調子に乗る仕事なら、皆が歌うのである」とロシア人で日本で囚われの身となったゴローブニンは書き記しています。
しかし多くの外国人が賞賛し、褒め称える完成された江戸の文明は滅びる運命にもあった、と著者は感じています。
それはまず徳川時代という幕藩制が制度的矛盾によっていずれは崩壊すべく運命づけられていたという点、そしてもう一つは世界の資本主義システムが最後に残った日本をも組み込もうとしていたという歴史の流れに読み込まれます。
そして「その後に続く明治という時代を通じて、なぜ日本人がこの完成された
よき美しき文明と徐々に別れを告げねばならなかったのか」ということについて、著者はいくつかの考えを述べてくれます。
日本をさんざんに褒めてくれたオールコックもこと道徳や精神の質に関しては「日本人の賞揚すべき美徳とは社会生活の次元にとどまるもので、より高次の精神的な志向とは無縁のものだと言いたかった」のではないか、と著者は考えています。
「観察者たちは日本の庶民のうちに数々のよきもの美しきものを発見した。だが同時に、彼らのあっけらかんとした表情のうちに、なにか野卑なもの、ほとんど白痴制にいたりかねないものを嗅ぎつけてもいた」
「ある種の子供っぽさ」を感じていたのだとも言えます。
著者は「おのれという存在にたしかな個を感じるというのは、心の垣根が高くなるということだった」と書きます。
日本人同士では心の垣根が低いので、(まあおれもあいつならそれくらいのことはするだろう)という観念は、西洋人の感覚では個人同士のマナーやルールを逸脱しても平気な社会の所産だったというのです。
個人の社会という、心の垣根の高さに疲れた人たちは日本人の心の垣根の低さに癒されて惚れ込んでしまったのだ、と著者は言います。
そしてこの心の垣根の高い個人の社会こそ、「個である事によって、感情と志向と表現を、人間の能力に許される限度まで深め拡大して飛躍させうるということ」であり「オールコックやブスケは、そういう個の世界がかのうならしめる精神的展開がこの国には欠けていると感じた」のだと著者は指摘するのです。
文明は断絶しても、この子孫である現代の私たちはどうでしょうか。心の垣根が高すぎて疲れてはいないでしょうか。だから垣根の低い無償の笑顔に接するときに癒されるのではありませんか。
しかし同時にそのような個の世界で生きざるを得ないという決心をしたからこそ、近代工業社会を乗り切り、その中で世界の中に一定の存在感を示せたのでもあるのでしょう。
日本人が心のなかのDNAに従うように日本人であろうとするときに、子供っぽく、野卑に陥っているということはありませんか。
帰国子女が日本に感じる一種我慢のならない雰囲気も、個をあまり真剣に考えない風潮と無縁ではないように思います。
しかしそれでも個の尊重を絶対視することには拒否感を感じている人も多い事でしょう。西洋の個に対する考え方も唯一絶対ではないのです。
今の私たちの心の垣根はこの西洋と江戸時代の日本人のそれらの中間に位置しているのでしょう。しかしそれがどのくらいどちらかに近いと思うかのバランスには個人差が広がってもいるようです。
しかし今日のグローバルスタンダードを一つの価値標準と思いながらも、思いきり対極に位置する、今は滅びてしまった江戸時代の日本文明を知る事は、心のバランスを保つ上で必ず役に立つに違いありません。
まだまだ文明は滅びても、DNAとしてときどき表に出る感覚にその名残が伺えるのですから。