連休中日の今日だけは事情があって出勤です。夏休みに登校日というのがあったことを思い出しました。懐かしー。
【日本の品格】
今度の6月に、静岡県の伊豆である会議があってお招きを受けています。
この会議は、40代までの各界をリードするであろう将来を嘱望されている若手の人達が集まって特定のテーマについて、語り合うという趣向の会議なのです。
私は嘱望されているというよりは掛川当時の人脈で潜り込んだというのが真相なので大きな顔はできないのですが、普段なら滅多に合うことのできないような人達が一同に集まるというのですから、参加できるものならしたいものだと願っていましたが、この幸運に感謝するだけです。
そんな会議から今年の会議の趣意書が送られてきました。テーマはなんと「日本(にっぽん)の品格」です。日本に「にっぽん」というルビがふられているあたりも鍵なのかも知れませんね。
趣意書にはまず「人が徳や教養、品格を問われなくなったのはいつの頃からか。収入や地位、偏差値が人を見る尺度として大手を振り、利己主義や粗暴さを『自由』や『権利』と勘違いする人達が増えた。虚偽や脱法行為が厳しくとがめられることなく、曖昧にされることも今や少なくない」ときました。
確かに徳や教養、品格は人を評価する軸としてはあまり表に出なくなりました。そのような面で立派な方はまだまだおられるのですが。
「国もまた似た状況にある。GDPや軍事力で国を論じることは多いが、科学技術、文化、芸術の水準や他国への支援で国を評価することは減った。安易な軍事力の示威、行使が喝采を浴び、偏狭なナショナリズムが各国に跋扈している。一国の利害を超えた人類への貢献が真剣に語られる事も少なくなった」
「『アジアとの共生』にかかわる様々な問題を前にした時、日本は平和への意志、経済、科学技術、文化、芸術はじめ、多様な分野での世界への貢献など多くのものを問われる。それが独善に陥らず、真に世界から感謝されるために必要なことはまずは日本が国家としての徳や品格を持つことではないだろうか」
「誰しも自らを振り返る時、徳や品格を人や国家に求めることには大きな勇気がいる。だが、私達はあえて今、日本に徳と品格を求めたい。アジアそして世界が、徳と品格を備えた国を一つでも多く必要としているからであり、日本の伝統と文化の中に世界に向けて発信すべき何かがあると確信するからである」
今回の会議もなかなか大上段に振りかぶったようなテーマを与えてくれたものです。
たとえば、中国の古い書物である大学には「修身、斉家、治国、平天下」とあります。もしかしたらこのような、じぶんの身を修め、家をなし、国を治めることではじめて天下に平和が訪れる、というようなことなのかもしれません。
しかしこのような平和な幸せだけでは不十分で、さらに一歩進んで他者をも巻き込んで、より高い精神性を訴求する「徳」や「品格」などという高みには至らないような気もします。
しかし品格を持とうとか、徳を身につけたいという考えはあまりにも目的的すぎるでしょう。徳だとか品格などは、酒造りで麹が自分の働きを精一杯する事で結果として上質のお酒が出来て、上品な香りと味が「醸し出される」ように、立派な生き方をした人から結果として醸し出されてくるものだと思います。
国家の品格という事になると、物質的な満足から精神的な満足へと価値観が転換して行く事も大事になりそうです。
日本は物質的に満たされたのでしょうか?物質的に満たされなくては精神的な満足は生まれないのでしょうか?
今日はこのくらいにして、もう少しじっくりと考えてみたいテーマです。皆さんはどう思いますか?
【日本の品格】
今度の6月に、静岡県の伊豆である会議があってお招きを受けています。
この会議は、40代までの各界をリードするであろう将来を嘱望されている若手の人達が集まって特定のテーマについて、語り合うという趣向の会議なのです。
私は嘱望されているというよりは掛川当時の人脈で潜り込んだというのが真相なので大きな顔はできないのですが、普段なら滅多に合うことのできないような人達が一同に集まるというのですから、参加できるものならしたいものだと願っていましたが、この幸運に感謝するだけです。
そんな会議から今年の会議の趣意書が送られてきました。テーマはなんと「日本(にっぽん)の品格」です。日本に「にっぽん」というルビがふられているあたりも鍵なのかも知れませんね。
趣意書にはまず「人が徳や教養、品格を問われなくなったのはいつの頃からか。収入や地位、偏差値が人を見る尺度として大手を振り、利己主義や粗暴さを『自由』や『権利』と勘違いする人達が増えた。虚偽や脱法行為が厳しくとがめられることなく、曖昧にされることも今や少なくない」ときました。
確かに徳や教養、品格は人を評価する軸としてはあまり表に出なくなりました。そのような面で立派な方はまだまだおられるのですが。
「国もまた似た状況にある。GDPや軍事力で国を論じることは多いが、科学技術、文化、芸術の水準や他国への支援で国を評価することは減った。安易な軍事力の示威、行使が喝采を浴び、偏狭なナショナリズムが各国に跋扈している。一国の利害を超えた人類への貢献が真剣に語られる事も少なくなった」
「『アジアとの共生』にかかわる様々な問題を前にした時、日本は平和への意志、経済、科学技術、文化、芸術はじめ、多様な分野での世界への貢献など多くのものを問われる。それが独善に陥らず、真に世界から感謝されるために必要なことはまずは日本が国家としての徳や品格を持つことではないだろうか」
「誰しも自らを振り返る時、徳や品格を人や国家に求めることには大きな勇気がいる。だが、私達はあえて今、日本に徳と品格を求めたい。アジアそして世界が、徳と品格を備えた国を一つでも多く必要としているからであり、日本の伝統と文化の中に世界に向けて発信すべき何かがあると確信するからである」
今回の会議もなかなか大上段に振りかぶったようなテーマを与えてくれたものです。
たとえば、中国の古い書物である大学には「修身、斉家、治国、平天下」とあります。もしかしたらこのような、じぶんの身を修め、家をなし、国を治めることではじめて天下に平和が訪れる、というようなことなのかもしれません。
しかしこのような平和な幸せだけでは不十分で、さらに一歩進んで他者をも巻き込んで、より高い精神性を訴求する「徳」や「品格」などという高みには至らないような気もします。
しかし品格を持とうとか、徳を身につけたいという考えはあまりにも目的的すぎるでしょう。徳だとか品格などは、酒造りで麹が自分の働きを精一杯する事で結果として上質のお酒が出来て、上品な香りと味が「醸し出される」ように、立派な生き方をした人から結果として醸し出されてくるものだと思います。
国家の品格という事になると、物質的な満足から精神的な満足へと価値観が転換して行く事も大事になりそうです。
日本は物質的に満たされたのでしょうか?物質的に満たされなくては精神的な満足は生まれないのでしょうか?
今日はこのくらいにして、もう少しじっくりと考えてみたいテーマです。皆さんはどう思いますか?