昨日に続いて井原西鶴の「日本永代蔵」からのお話。この中のお話に、なんと掛川の風物が載っているのです。これは良いネタですよ。
※ ※ ※ ※
日本永代蔵の巻三の五話めに、『紙衣身代(かみこしんだい)の破れ時』というお話が乗っています。主人公は駿河府中の本町というから今の静岡市呉服町あたりにいた呉服屋の忠助という者。
この男、一度は東国や北国にも多くの手代に出店を持たせて繁盛を誇った身の上であったが、栄枯盛衰は世の習い。つまるところは亭主の心掛けが悪く、親の代には栄えたものの、忠助の代になってからは収支の決算もせず、帳面もつけずというのではやがて身代が潰れるのも当然であったろう。
借家住まいの情けない身の上となったある年の師走に、忠助の家に両隣の連中が集まって与太話を始めた。すると忠助が「私も遠江の日坂あたりまで行ける旅費があったならたちまち金持ちになる心当たりがある」と自信ありげに言う。
それを聞いて近在の連中が珍しくも、銭一貫二百文(注:一貫は千文、一文は今の約27円に相当。さしずめ三万円くらい)をかき集めて恵んでくれた。
忠助は喜んですぐに旅立っていった。周りの連中は「さだめし良い親類でもあって無心をするのか、それとも昔の売掛の残っている人から取り立てをするのか、いずれにしても年越しの費用にはなるだろう」と思いながら帰りを待った。
ところが忠助はそんなことではなく、大井川を渡って小夜の中山に立っておられる峰の観音(注:掛川市東山の無間山観音寺)に参り、来世のことはどうなろうと、ただもうこの世の幸せを祈り、ずっと以前に埋めてしまったという無間の鐘のあり場所を探し出して、身も心も打ち込んで「私の一代のうちにもう一度長者にしてくだされ。子供の代には乞食になろうとも、この世を助けていただきたい」と祈願して、この一年が地獄へも届けとばかりつき立てた。
【粟ヶ岳の姿 木を植えて『茶』の字を書いている】
もしこの鐘を突いて金持ちになるのだとしたら、欲の深い今の世の人のことだから、来世では蛇になろうとかまうまい。効き目がないから誰も突きになどこないのだ。愚かな忠助は無駄な旅費を使ってここまでやってきてまずは旅費分の損をしたわけだ。
駿河に帰ってこのことを人に話すと、聞く人ごとに「そんな心掛けだからあのざまだ」と笑うのであった。
さてこの府中には竹細工の名人がいた。忠助はこれを見習って、花かごを造り、十三になる娘を府中の通り筋へ出してこれを売らせてその日暮らしを送っていた。この娘、親孝行では知らぬ者が無くしかもまた大の器量よしであった。
ある時江戸の金持ちが、伊勢参宮の帰りにこの娘を見初め、親元を訪ねてもらい受け、一人息子の嫁にした。その後忠助夫婦をはじめ一家残らず江戸に引き取られ、我が子の世話になる幸せな身の上となり一生を楽々と送ることになった。
「みめは果報のひとつ」であるなあ。
…とまあ、こんな話が載っています。あまり町人の教訓めいた終わりになってはいませんが。
※ ※ ※ ※
掛川には実際に今でも小夜の中山の北に粟ヶ岳という山があり、その麓に無間山観音寺が、また粟ヶ岳には無間の鐘を埋めたという無間の井戸もあります。
東海道筋は歴史上の話題の宝庫。こんな物語に書かれている由緒をまちづくりに活かさない手はないはず。
これを活かしたものが、粟ヶ岳山頂にある売店の「無間の鐘くっきー」だけというのではちょっと寂しいもの。歴史のない街から見ればよだれが出そうなネタですね。
さて、これをこれからの掛川は活かせるでしょうか?
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日本永代蔵の巻三の五話めに、『紙衣身代(かみこしんだい)の破れ時』というお話が乗っています。主人公は駿河府中の本町というから今の静岡市呉服町あたりにいた呉服屋の忠助という者。
この男、一度は東国や北国にも多くの手代に出店を持たせて繁盛を誇った身の上であったが、栄枯盛衰は世の習い。つまるところは亭主の心掛けが悪く、親の代には栄えたものの、忠助の代になってからは収支の決算もせず、帳面もつけずというのではやがて身代が潰れるのも当然であったろう。
借家住まいの情けない身の上となったある年の師走に、忠助の家に両隣の連中が集まって与太話を始めた。すると忠助が「私も遠江の日坂あたりまで行ける旅費があったならたちまち金持ちになる心当たりがある」と自信ありげに言う。
それを聞いて近在の連中が珍しくも、銭一貫二百文(注:一貫は千文、一文は今の約27円に相当。さしずめ三万円くらい)をかき集めて恵んでくれた。
忠助は喜んですぐに旅立っていった。周りの連中は「さだめし良い親類でもあって無心をするのか、それとも昔の売掛の残っている人から取り立てをするのか、いずれにしても年越しの費用にはなるだろう」と思いながら帰りを待った。
ところが忠助はそんなことではなく、大井川を渡って小夜の中山に立っておられる峰の観音(注:掛川市東山の無間山観音寺)に参り、来世のことはどうなろうと、ただもうこの世の幸せを祈り、ずっと以前に埋めてしまったという無間の鐘のあり場所を探し出して、身も心も打ち込んで「私の一代のうちにもう一度長者にしてくだされ。子供の代には乞食になろうとも、この世を助けていただきたい」と祈願して、この一年が地獄へも届けとばかりつき立てた。
【粟ヶ岳の姿 木を植えて『茶』の字を書いている】
もしこの鐘を突いて金持ちになるのだとしたら、欲の深い今の世の人のことだから、来世では蛇になろうとかまうまい。効き目がないから誰も突きになどこないのだ。愚かな忠助は無駄な旅費を使ってここまでやってきてまずは旅費分の損をしたわけだ。
駿河に帰ってこのことを人に話すと、聞く人ごとに「そんな心掛けだからあのざまだ」と笑うのであった。
さてこの府中には竹細工の名人がいた。忠助はこれを見習って、花かごを造り、十三になる娘を府中の通り筋へ出してこれを売らせてその日暮らしを送っていた。この娘、親孝行では知らぬ者が無くしかもまた大の器量よしであった。
ある時江戸の金持ちが、伊勢参宮の帰りにこの娘を見初め、親元を訪ねてもらい受け、一人息子の嫁にした。その後忠助夫婦をはじめ一家残らず江戸に引き取られ、我が子の世話になる幸せな身の上となり一生を楽々と送ることになった。
「みめは果報のひとつ」であるなあ。
…とまあ、こんな話が載っています。あまり町人の教訓めいた終わりになってはいませんが。
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掛川には実際に今でも小夜の中山の北に粟ヶ岳という山があり、その麓に無間山観音寺が、また粟ヶ岳には無間の鐘を埋めたという無間の井戸もあります。
東海道筋は歴史上の話題の宝庫。こんな物語に書かれている由緒をまちづくりに活かさない手はないはず。
これを活かしたものが、粟ヶ岳山頂にある売店の「無間の鐘くっきー」だけというのではちょっと寂しいもの。歴史のない街から見ればよだれが出そうなネタですね。
さて、これをこれからの掛川は活かせるでしょうか?