友人と飲みながら、パブリックとプライベートの線引きの話になりました。
つまりいろいろなものはどこまでが私有財産で、どこからが世間共有の財産なのか、その区別はどのあたりにあるのだろうか、ということです。
【自分の体は自分だけのものか?】
まずは体育系シンクタンカーの友人Aさんからの問題提起です。
「日本人は他人と接触するのをあまり好みません。せいぜい握手くらいでしょうか。しかし外国では握手はもちろん、夫婦でなくても挨拶で顔にキスくらいしますよね。それはつまり、挨拶に使われる手も顔もパブリックな存在だということなんですよ」
「なるほど、日本人は少なくともキスをする慣行はありませんね。それに自分のものを狭く考えすぎるようです」
「昔は女子児童に対しては、女の先生が女の体はどうなっていて、どう手入れをするべきか、ということまで教えたものですが、いまはそのような、『体の手入れの仕方を教える』という社会的な知識・智恵の継承がなされなくなっています。もちろん学校だけではなく家庭でも教えるべきなのでしょうけれど、肉体をもっとパブリックな存在だと思うような考え方が必要なのだと思いますね」
握手とキスなどの挨拶をする部位はパブリックな存在だ、という視点は目からウロコ。面白いなあ。
【家並み、街並みは誰のもの?】
景観問題も同じです。土地を買った自分が家を建てる場合、通常は建築基準法や都市計画法などの決まりを守れば、あとはあまり制限がないのが日本の建築の現状です。
だからどんな屋根の形にしようが、どんな家にしようが、それは土地の所有者の自由、つまり雌雄の土地の中に立てられる建築物はプライベートな存在です。
少し前に、漫画家の楳図かずお氏が吉祥寺に赤白ストライプの家を建てる際に周辺と差し止めのトラブルになりました。結局差し止めはできないという裁判所の判決が出たことで決着しましたが、この根っこには地域の景観や雰囲気は公共のものなのではないのか、という価値観です。
皆が統一性のある素材や統一性のあるデザインの家を建てることで美しい家並みや街並みができればそれは地域の財産になるものです。ヨーロッパの歴史ある諸都市では、古い家でも内装を変えて現代生活に対応させても、家の外観は昔からのままにして街並み景観を保存するという価値観が根付いています。電線が街の中に張り巡らされるという日本の都市のような景観破壊もあまり見られません。
住民が美しい町に住みたいと思えば、自分たちができる範囲で美しさを継承することに協力をしなくてはならないのです。
ようやく日本でも最近は、地域で景観協定を結ぶなどして、地域の各家のデザインに統一性をもたせて美しい家並みを作り上げようという運動が起こりつつありますが、それに参加しない人への強制力はあまり強くありません。そもそもそうした地域にいるからには一定の義務を負うという規範性を日本人はどんどん感じなくなっているようです。
自由度が高くて魅力的な建築素材もそんな考えを助長しがちです。ここにもパブリックとプライベートの境目の問題が見え隠れしています。
【僕の命は僕のものだよね?への回答】
先日ご紹介した新潟青陵大学碓井真史先生が運営するサイト「心理学総合案内 心の散歩道」に子供から寄せられた「僕の命は僕のものだから自殺しても良いんだよね?」という問いへの答えが書かれていました。
命はプライベートなものでしょうか。
※ ※ 【以下引用】 ※ ※
心理学総合案内 心の散歩道(心理学講座)~「おくりびと」「つみきのいえ」アカデミー賞から思う命と死と人生の心理学2
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/koneko/2009/inochi2.html
私は地元新潟ローカルのテレビラジオのいくつかの番組に出ていますが、その一つ、新潟県民FM(FM PORT)の番組「NIGHT i 」の中で、「愛の保健室」という人生相談オーナーを担当しています。
そこに寄せられた、男子中学生からの質問です。
Q.僕の命は僕のものなんだから、僕が僕の命をどうしようと、僕の勝手ですよね?
私は、こんなふうに答えました。
A.たとえば、私が一つの種を持っていたとしましょう。私の種です。この種をどうしようかと思っていたら、友人が「僕の家の庭に植えたらいいよ」と言ってくれたので、その人の家の庭に植えることにしました。
その話を聞いた別の友人が、「それじゃあ、私は良い肥料を持っているので、この肥料をやろう」と言って、肥料をくれました。
種は小さな芽を出し、少しずつ育っていきます。そんなある日、嵐がきました。そのとき、また別の友人が心配して見に来てくれました。彼が、嵐から植物を守ってくれました。
この他にも、いろんな人たちがかかわり、虫を取ってくれたり、水をやったりしてくれました。そうして、ついに大きくてきれいな花が咲きました。
さて、この花は誰のものでしょうか。
「私の種から育ったのだから私のものだ、だからこの花をむしり取ろうが何をしようが、私の勝手だ」そんなふうに言えるでしょうか。いいえ、この花はもう私だけの花ではないでしょう。
私たち人間も、祖父母がいて父母がいて生まれてきました。多くの人々がかかわり、努力し、時に涙して支えてくれました。さあ、この命は僕だけのものでしょうか。
この話は、まじめに生きろというお説教のつもりはありません。
命はつながっていると感じると、命(人生)を粗末にできません。どんな花も、小さくても色は何でも、大切な大切な花です。命のつながりを感じつつ(人々の感謝しつつ)、命を輝かせる(活躍する)ことができるのです。それは、親のためや社会のためではなく、そうしていくことが幸福感を作り出していくのです。
フロイトは言っています。「健康な人とは働くことと愛することができる人だ」。それは、言葉をかえて言えば、誰かを必要とし、誰かに必要とされながら、命を輝かせて生きていることではないでしょうか。
※ ※ 【引用ここまで】 ※ ※
自分の命は自分だけで生まれ、自分だけで育ってきたものではありません。世間や社会との多くの関わりの中で今日まで存在することができているだけです。
自分だけが良ければそれでいいという考えには、そんな周辺との関わりが途切れてしまっている印象を受けます。自分の命も全てがプライベートなのではなく、パブリックな部分があるといえるのでしょう。
パブリックとプライベートの境目、皆さんはどう感じられましたか?
つまりいろいろなものはどこまでが私有財産で、どこからが世間共有の財産なのか、その区別はどのあたりにあるのだろうか、ということです。
【自分の体は自分だけのものか?】
まずは体育系シンクタンカーの友人Aさんからの問題提起です。
「日本人は他人と接触するのをあまり好みません。せいぜい握手くらいでしょうか。しかし外国では握手はもちろん、夫婦でなくても挨拶で顔にキスくらいしますよね。それはつまり、挨拶に使われる手も顔もパブリックな存在だということなんですよ」
「なるほど、日本人は少なくともキスをする慣行はありませんね。それに自分のものを狭く考えすぎるようです」
「昔は女子児童に対しては、女の先生が女の体はどうなっていて、どう手入れをするべきか、ということまで教えたものですが、いまはそのような、『体の手入れの仕方を教える』という社会的な知識・智恵の継承がなされなくなっています。もちろん学校だけではなく家庭でも教えるべきなのでしょうけれど、肉体をもっとパブリックな存在だと思うような考え方が必要なのだと思いますね」
握手とキスなどの挨拶をする部位はパブリックな存在だ、という視点は目からウロコ。面白いなあ。
【家並み、街並みは誰のもの?】
景観問題も同じです。土地を買った自分が家を建てる場合、通常は建築基準法や都市計画法などの決まりを守れば、あとはあまり制限がないのが日本の建築の現状です。
だからどんな屋根の形にしようが、どんな家にしようが、それは土地の所有者の自由、つまり雌雄の土地の中に立てられる建築物はプライベートな存在です。
少し前に、漫画家の楳図かずお氏が吉祥寺に赤白ストライプの家を建てる際に周辺と差し止めのトラブルになりました。結局差し止めはできないという裁判所の判決が出たことで決着しましたが、この根っこには地域の景観や雰囲気は公共のものなのではないのか、という価値観です。
皆が統一性のある素材や統一性のあるデザインの家を建てることで美しい家並みや街並みができればそれは地域の財産になるものです。ヨーロッパの歴史ある諸都市では、古い家でも内装を変えて現代生活に対応させても、家の外観は昔からのままにして街並み景観を保存するという価値観が根付いています。電線が街の中に張り巡らされるという日本の都市のような景観破壊もあまり見られません。
住民が美しい町に住みたいと思えば、自分たちができる範囲で美しさを継承することに協力をしなくてはならないのです。
ようやく日本でも最近は、地域で景観協定を結ぶなどして、地域の各家のデザインに統一性をもたせて美しい家並みを作り上げようという運動が起こりつつありますが、それに参加しない人への強制力はあまり強くありません。そもそもそうした地域にいるからには一定の義務を負うという規範性を日本人はどんどん感じなくなっているようです。
自由度が高くて魅力的な建築素材もそんな考えを助長しがちです。ここにもパブリックとプライベートの境目の問題が見え隠れしています。
【僕の命は僕のものだよね?への回答】
先日ご紹介した新潟青陵大学碓井真史先生が運営するサイト「心理学総合案内 心の散歩道」に子供から寄せられた「僕の命は僕のものだから自殺しても良いんだよね?」という問いへの答えが書かれていました。
命はプライベートなものでしょうか。
※ ※ 【以下引用】 ※ ※
心理学総合案内 心の散歩道(心理学講座)~「おくりびと」「つみきのいえ」アカデミー賞から思う命と死と人生の心理学2
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/koneko/2009/inochi2.html
私は地元新潟ローカルのテレビラジオのいくつかの番組に出ていますが、その一つ、新潟県民FM(FM PORT)の番組「NIGHT i 」の中で、「愛の保健室」という人生相談オーナーを担当しています。
そこに寄せられた、男子中学生からの質問です。
Q.僕の命は僕のものなんだから、僕が僕の命をどうしようと、僕の勝手ですよね?
私は、こんなふうに答えました。
A.たとえば、私が一つの種を持っていたとしましょう。私の種です。この種をどうしようかと思っていたら、友人が「僕の家の庭に植えたらいいよ」と言ってくれたので、その人の家の庭に植えることにしました。
その話を聞いた別の友人が、「それじゃあ、私は良い肥料を持っているので、この肥料をやろう」と言って、肥料をくれました。
種は小さな芽を出し、少しずつ育っていきます。そんなある日、嵐がきました。そのとき、また別の友人が心配して見に来てくれました。彼が、嵐から植物を守ってくれました。
この他にも、いろんな人たちがかかわり、虫を取ってくれたり、水をやったりしてくれました。そうして、ついに大きくてきれいな花が咲きました。
さて、この花は誰のものでしょうか。
「私の種から育ったのだから私のものだ、だからこの花をむしり取ろうが何をしようが、私の勝手だ」そんなふうに言えるでしょうか。いいえ、この花はもう私だけの花ではないでしょう。
私たち人間も、祖父母がいて父母がいて生まれてきました。多くの人々がかかわり、努力し、時に涙して支えてくれました。さあ、この命は僕だけのものでしょうか。
この話は、まじめに生きろというお説教のつもりはありません。
命はつながっていると感じると、命(人生)を粗末にできません。どんな花も、小さくても色は何でも、大切な大切な花です。命のつながりを感じつつ(人々の感謝しつつ)、命を輝かせる(活躍する)ことができるのです。それは、親のためや社会のためではなく、そうしていくことが幸福感を作り出していくのです。
フロイトは言っています。「健康な人とは働くことと愛することができる人だ」。それは、言葉をかえて言えば、誰かを必要とし、誰かに必要とされながら、命を輝かせて生きていることではないでしょうか。
※ ※ 【引用ここまで】 ※ ※
自分の命は自分だけで生まれ、自分だけで育ってきたものではありません。世間や社会との多くの関わりの中で今日まで存在することができているだけです。
自分だけが良ければそれでいいという考えには、そんな周辺との関わりが途切れてしまっている印象を受けます。自分の命も全てがプライベートなのではなく、パブリックな部分があるといえるのでしょう。
パブリックとプライベートの境目、皆さんはどう感じられましたか?
