北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

方丈記と防災

2009-04-23 22:52:05 | Weblog


 日本が生んだ三大随筆の一つが鴨長明の「方丈記」。

 行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。
 世の中にある人と栖(すみか)と、またかくの如し。

 玉敷の都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争える、高き・賤しき人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、むかしありし家は稀なり。或は、去年焼けて、今年造れり。或は、大家(おおいへ)亡びて、小家(こいへ)となる。
 住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかに一人・二人なり。朝(あした)に死に、夕に生まるる習ひ、(ただ)、水の泡にぞ似たりける。

 知らず、生れ・死ぬる人、何方(いづかた)より来りて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰が為にか、心を悩まし、何によりてか、目を悦ばしむる。その主と栖と無常を争ふさま、言はば、朝顔の露に異らず。或は、露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は、花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つことなし。

 暗誦したい名文の一つですね。

 (逐語訳はこちらをご参考に http://www13.plala.or.jp/hosonag/hojyolifetop.htm)

   *   *   *   *   *

 この方丈記、随筆全体は十二編からなっており実は全体でもそれほど長くはなく、すぐに読めます。全体を貫いているのは、人と栖が永遠ではないという無常観と、これらの心悩ます人と栖から脱却しようとしてやはりできない自分を見つめる様、ということになるでしょうか。

 興味深いのは、これらの人と栖が廃れ行く原因として長明自身が生涯に体験した五つの厄災を挙げて、それらの災害のによって人と栖が荒れて行くはかなさを描いていることです。

 五大厄災とは
 ①安元三年(1177)四月(新暦では6月)の大火 (長明二十三歳)
 ②治承四(1180)年卯月の辻風・竜巻
 ③治承四年水無月の福原への遷都
 ④養和年間(1181~1182)頃の飢饉
 ⑤元暦二(1185)年七月(新暦8月)の大地震 (長明三十一歳)

 のことで、こうした厄災・災害の実相を克明に描き、その結果人の命も豪華な家も、跡形もなく失われてしまうものだと書き記しています。

 たとえば安元の大火のところでは、いったん大火となれば、人は炎にまかれて倒れ、どんな宝も取り出すことなく灰になってしまう。人間の生活のための仕事は道理も分からずするものだが、その中で、これほどまでに危険な都の中に家を作ろうとして財産を消費し、心をあれこれと労するのは非常に無益ではないか、と述べています。

 また治承の辻風では、竜巻を受けた家々は大きいのも小さいのもみな被害を受けたばかりではなく、その家々を修理する間にわが身に怪我をして不具になった人々の数が知れないとあります。

 福原(今の神戸市)への遷都は、平清盛の思いつきで実行されたものでしたが、突然都が移ることになり貴族から平民までが引越しをすることになったものの、移ろうとして頑張る人や引越しができず悲嘆にくれる人、家々は分解されて河に筏となり運ばれる様子が描かれます。
 しかしながら行く先の福原は土地も狭く、まともな都市基盤のないところなので、土地を失った人々やこれから土木工事をしなければならない庶民が嘆いています。
 ちなみにこの福原遷都は、その都市の冬にはまた元に戻されるという始末で、まさに人災の極みと言えましょう。

 そして元暦二年の大地震では、世間並みの地震ではなく、山は崩れて来て河を埋め、海は傾むいて陸地を一面にぬらした。地面は裂けて、そこから水が沸いて出、巌はいくつかに割れて谷に転げ込む・・・とあり、寺院の全ての建物が一つとして完全なものはない。あるものは崩れ、あるものは倒壊してしまう・・・とそのすさまじさを物語っています。

 その余震はだんだん少なくなりながらも三ヶ月は続いたとのこと。そして人々は、地震の当座は皆家を作ることの無意味なことを口にして出して言って、すこしは心の汚れも減るかと思われたが、月日がたって年数が経った後では言葉に出して言い出す人さえいない、と日が経つにつれて災害に対してまた無自覚になってゆく人間の弱さを嘆きます。

 和漢混交体による災害の描写は一級の文体です。

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 人の命はともかくとして、災害で家を失うことに対しては都市防災の営みがされてきたものの、本当の意味でそれが機能するようになったのは近代のこと。江戸時代はまだ火事は破壊消防でしたから。  

 建築基準法は昭和25年にできましたが、耐震基準が見直されて現在のものになったのは昭和56年のこと。実際阪神淡路大震災でも新耐震基準で建てられた家は無事でした。

 建材や施工技術の発達で、地震でも竜巻でも火事でも大丈夫な家が建てられるところまできたのです。

 大正12(1923)年の関東大震災は、地震による火災の怖さを知らしめ、都市計画が進んだ反面、そのときに郊外に居を移した人たちによって、いまだに東京の環状7号線周りには木造で建て替えが進まない木造密集地域が存在しています。
 
 阪神淡路大震災で延焼被害が出たのもそうした密集地区でした。密集地区は建築をするのに必要な道路幅4メートルを確保できないために、地震が来たらおそらく倒れるだろうということが分かっていても、建て替えが進みません。現代日本のそれも首都のおひざもとにまだそういうところがある、これが現実。

 万人が住む家に心惑わなくなるのはいつの日のことでしょうか。


 ちなみに三大随筆の残りの二つは「枕草子」と「徒然草」。いつかじっくり読んでおきたい古典文学です。

 
コメント (1)
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