なぜか庶民に大人気の石川啄木は、明治19(1886)年2月20日、岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市)に生まれました。
彼は26歳という短い生涯の中で北海道と縁が深いのは良く知られた話。
初めて北海道に渡ったのは、明治35年、19歳の時のことで、上京するお金を小樽に住んでいた姉に無心するために秋ごろに小樽を訪ねたのでした。
二回目が明治39年2月の函館訪問、そして三回目の渡道が有名な北海道放浪時代と言われる期間で、明治40年5月に函館に到着して翌41年4月に釧路から船で離道するまでの一年ほどの間のことでした。
函館時代の啄木青年は、始め商工会議所の臨時雇いで生計を立てていました。6月に尋常小学校の代用教員となり8月には函館日日新聞の遊軍記者になったものの、8月25日の函館大火によって彼の地を離れる羽目になりました。
9月に札幌入りして小樽に住み始めたものの、わずか二週間で小樽日報の記者として小樽に入ってしまいます。
小樽では後の作詞家野口雨情などと机を共にして、小樽日報の遊軍記者を始めたものの、すぐに会社内の内紛に巻き込まれた形となって、12月には釧路にある釧路新聞への移動を決意します。
どうもあまりひとところにじっとしていられないのが啄木の性癖と言えるでしょうか。
※ ※ ※ ※ ※
啄木は明治41年1月21日に当時の釧路駅に降り立ちました。その時に詠んだ詩が
さいはての駅に降り立ち雪明り
さびしき町に歩み入りにき
というものでした。すでに歌人としての才能は開花し始めています。
啄木は弱冠22歳ながら、当時の釧路新聞の主筆という編集長以上の権限を持たせてもらって、釧路新聞紙面を中心に随筆から論説、短歌と縦横に筆を振るって彼の文学的才能を多方面で開花させました。
また連日のように料亭へ入りびたり、芸妓などとも浮名を流します。
当時としては破格の月給15円をもらいながら、わずか釧路在住76日間の間に170円もの借金をこさえたと言いますからその遊び方も尋常ではありません。
彼の釧路での生活を丹念に見てゆくと、到着してから前半は嬉しそうに楽しそうに、幸せそうな文章を書いているのに対して、ある日を境に様子が一変します。
後の研究者の中には、「またまた啄木の不平病が出た」と書いている人もいるようですが、どうやら啄木は彼のまわりにいた女達を巡る事件によって、鬱勃たる気分に陥ったようです。
彼は丹念につけた日記が残されていますが、その3月22日の日記には「つくづくと、真につくづくと、釧路がイヤになった。噫。」と書かれており、その翌日の23日からは釧路脱出まで無断欠勤ということになりました。
いったい何があったというのか、啄木を巡るミステリーとも言えそうですが、啄木にこれほど愛され、これほど嫌われた釧路という土地も面白いですね。
※ ※ ※ ※ ※
啄木が釧路にいたのは明治41年1月21日から4月5日までの76日間のこと。つまり彼の歌はすべて今頃からの寒い冬の時期の歌だということです。
そうしたことを合わせ読むと情感がさらに増してきますね。
西の空 雲間を染めて 赤々と
氷れる海に 日は落ちにけり
啄木も釧路の夕日を見たようです。
心は癒されたのでしょうか。
彼は26歳という短い生涯の中で北海道と縁が深いのは良く知られた話。
初めて北海道に渡ったのは、明治35年、19歳の時のことで、上京するお金を小樽に住んでいた姉に無心するために秋ごろに小樽を訪ねたのでした。
二回目が明治39年2月の函館訪問、そして三回目の渡道が有名な北海道放浪時代と言われる期間で、明治40年5月に函館に到着して翌41年4月に釧路から船で離道するまでの一年ほどの間のことでした。
函館時代の啄木青年は、始め商工会議所の臨時雇いで生計を立てていました。6月に尋常小学校の代用教員となり8月には函館日日新聞の遊軍記者になったものの、8月25日の函館大火によって彼の地を離れる羽目になりました。
9月に札幌入りして小樽に住み始めたものの、わずか二週間で小樽日報の記者として小樽に入ってしまいます。
小樽では後の作詞家野口雨情などと机を共にして、小樽日報の遊軍記者を始めたものの、すぐに会社内の内紛に巻き込まれた形となって、12月には釧路にある釧路新聞への移動を決意します。
どうもあまりひとところにじっとしていられないのが啄木の性癖と言えるでしょうか。
※ ※ ※ ※ ※
啄木は明治41年1月21日に当時の釧路駅に降り立ちました。その時に詠んだ詩が
さいはての駅に降り立ち雪明り
さびしき町に歩み入りにき
というものでした。すでに歌人としての才能は開花し始めています。
啄木は弱冠22歳ながら、当時の釧路新聞の主筆という編集長以上の権限を持たせてもらって、釧路新聞紙面を中心に随筆から論説、短歌と縦横に筆を振るって彼の文学的才能を多方面で開花させました。
また連日のように料亭へ入りびたり、芸妓などとも浮名を流します。
当時としては破格の月給15円をもらいながら、わずか釧路在住76日間の間に170円もの借金をこさえたと言いますからその遊び方も尋常ではありません。
彼の釧路での生活を丹念に見てゆくと、到着してから前半は嬉しそうに楽しそうに、幸せそうな文章を書いているのに対して、ある日を境に様子が一変します。
後の研究者の中には、「またまた啄木の不平病が出た」と書いている人もいるようですが、どうやら啄木は彼のまわりにいた女達を巡る事件によって、鬱勃たる気分に陥ったようです。
彼は丹念につけた日記が残されていますが、その3月22日の日記には「つくづくと、真につくづくと、釧路がイヤになった。噫。」と書かれており、その翌日の23日からは釧路脱出まで無断欠勤ということになりました。
いったい何があったというのか、啄木を巡るミステリーとも言えそうですが、啄木にこれほど愛され、これほど嫌われた釧路という土地も面白いですね。
※ ※ ※ ※ ※
啄木が釧路にいたのは明治41年1月21日から4月5日までの76日間のこと。つまり彼の歌はすべて今頃からの寒い冬の時期の歌だということです。
そうしたことを合わせ読むと情感がさらに増してきますね。
西の空 雲間を染めて 赤々と
氷れる海に 日は落ちにけり
啄木も釧路の夕日を見たようです。
心は癒されたのでしょうか。