職場の大先輩で、神職いわゆる神主さんになる資格を取ってしまった方がおられました。
私も公共事業を仕事している以上、建設業や土木の仕事は小さな生き物の棲みかや命を結果として奪うことになってしまうので、そうしたことへ心を寄せる気持ちは大切にしたいと思っています。
まあ神主さんになった先輩というのはそもそも家柄が歴史ある神社を守る神職の家系だったということもあって、そうした道を選ばれたのかもしれないし、人にはそれぞれの事情があるのだということだと理解しています。
以前はその方から古事記の話を教えていただいたりしていたのですが、その後には、その方からお話を聞きにくくなりました。
神道は「教義がなくて、布教もしない」のが特色だという話を聞いたことがありますが、第三者としての感想や知識ならば「よく御存じだなあ」と感心できる事柄も、いざ神職となった方から話を聞くとなると受け取る方の感覚がそれまでとは異なってしまいます。
同じ人なのに、背負うものが変わるだけで受け取り方が変わるというのは興味深くもあり、一つの現実でもあるように思います。
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先日地元の建設業者の若手の方が挨拶に来て、「どうやったら建設業の良いところがこれから世に出る若い人たちに伝わって、自分たちの世界に就職してくれるだろうか」という話になりました。
我々もしばしば様々なイベントやシンポジウムを開催して建設業の社会的な意義や果たしている役割を世の中にお知らせしていますが、自分たちの中では納得できる内容でも世間にはなかなか伝わらないことを残念に感じています。
つまりは、建設事業に身を置く者が自分たちのやっていることをアピールしてもそれは、上記の話題と同様に、素直に受け止められにくいということなのではないか、ということです。
ではどうしたら関心を持ってくれたり、そうした情報に共感を寄せてもらえるでしょう。
そのためには『第三者の評価』が必要なのだと思います。ある主張をする人の身内から評価を得るのではなく、第三者である一般の方やオピニオンリーダーのような方たちからの評価を得ることが大切なのです。
一般新聞が評価してくれるような内容の記事を書いてくれるということは、やはり我々にとっては励みになるばかりでなく、社会の関心と共感を得る一助となるでしょう。
「第三者ですか、なるほど」
「必ずしもマスコミさんだけでなくても良いのです。一般の主婦の方とか商店主とか、お医者さんとか、私たちとは直接的な関係性のないような方からも一定の評価を得られるようにしましょうよ。がんばりましょう」
道は迂遠で長い道のりですが、地域を守ることの大切さを、地道に誠実に訴え続けて、少しでも多くの共感者を得たいものです。