一泊二日の根室出張。
折角根室まで来たので、今日の釧路行きの出発の前に早起きをして納沙布岬見学をしてきました。
私自身、納沙布岬には過去3回訪れたことがありますが、度重なる悪天候のためにこれまで一度も北方領土の島々を見たことがありませんでした。
それが今日の納沙布岬は、天候は曇りでしたがすぐそこの島影がはっきりと見えました。
島の位置図を示した大きな地図もありましたが、どの島影がどの島なのかがわかっていない私には、みえている島がどこなのか最後まで確信が持てませんでした。
見えたままの写真に地名があればわかりやすいのになあ、と思いましたがちょっと残念なところです。
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岬付近には北方領土返還運動関連など様々な石碑が立ち並んでいますが、そのなかに、「メナシクナシリの乱」で亡くなった犠牲者を悼む石碑がありました。
このあたりは和人もアイヌも北方領土の島々を自由に行き来していた江戸時代中期には蝦夷地でのいわゆる「俵物(たわらもの)」と呼ばれた海産物の収穫拠点でした。
俵物とは、蝦夷地で獲れる煎海鼠(いりなまこ/いりこ)や乾鮑(干鮑(ほしあわび))などのことです。
寒冷で米の取れない蝦夷松前藩の年貢は俵物で納めることが認められていたために道内の良好な漁場が開かれていきました。
初めの頃は藩主から商い場を与えられることで主従関係を結んでいましたが、18世紀初頭のころから商い場を経営することが武士の手には負えなくなり、商い場の交易権そのものを「場所請負人」として商人に任せ、任せた武士はその運上金をもらう形になりました。
場所請負人となった商人たちは、地元のアイヌの人々を使役して漁場の作業を行いましたが、なかにはアイヌの人たちに過酷な労働を課し、残虐なまでに支配した事例が多くありました。
メナシクナシリの戦いは、そうした支配に反発したアイヌの人たちが寛政5(1789)年に蜂起して倭人を襲い殺した事件なのですが、その犠牲者を悼む碑がこれというわけです。
江戸時代中期に、この北方の島々をめぐるロシアとの外交をめぐる事件は蝦夷地における大きなエポックになっているのですが、それを想い起させる碑でした。
蝦夷地の歴史は札幌だけではありませんね。
《参考》「黒船前夜」レビュー (2011年8月31日ブログ記事)
http://bit.ly/2ovLaXY