北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

目指せ!普門館!

2007-08-18 23:15:56 | Weblog
 夕べは気温がぐっと下がって、久しぶりにエアコンをかけずに夜寝ることができました。

 今日はそれほど暑くならないようなので、またまた自転車巡りのツアーに出ることにしました。今日は世田谷から杉並区方面を巡ろうと思います。今日は最後に「普門館」というところまで行こうと思うのです。

 いつも通り、東京の西側を巡るなら三軒茶屋がスタートです。ここで自転車を借りると今日はそのまま首都高3号線の高架を眺めながら国道246号線沿いに西へ向かいます。

 駒沢あたりで右に太い通りが出てきたのでそちらへ進路変更。と、曇りだった空から細かな雨が降ってきました。(ううむ、雨が降らなきゃいいがなあ)と思った頃に、真っ赤な鳥居を過ぎました。

 赤い鳥居といえばお稲荷さん、お稲荷さんといえば自然神のシンボルみたいなものですから、ちょっとご挨拶を。

  

  

 こちらにあるのは久富稲荷という神社ですが、もうこちらには400年も鎮座されているとのことです。古いんだなあ。

 こちらは参道が随分と長いのが特徴で、なんと250mもあるのですが、鳥居がある参道に面して家が建っているのはちょっと不思議な感覚。東電の方はスクーターで回っていました。だって車は通れなさそうですもんね。

  

    ※    ※    ※    ※

 続いて今日の目的地の一つである環状八号線沿いの砧公園へ。

 この砧公園は、昭和15(1940)年に紀元2600年記念事業の一環として「防空を名目として」事業化が決定された6カ所の大規模公園のうちの一つです。

  

  

 太平洋戦争が昭和16年に始まると本土空襲は現実味を帯びた問題となり、防空緑地としてこの公園が土地を取得され整備されたのでした。

 しかし敗戦と同時にこの緑地は農地解放の対象とされて失われてしまいます。それは戦争末期に食糧増産のためにイモ畑にしていた緑地を実質的に農地と見なされてしまったからで、その後の緑地行政にとってはこの誤った農地改革は大打撃であったと言わざるを得ません。

 当初の都市計画では86haだったものも、今では46haの公園になってしまいました。残念!

    ※    ※    ※    ※

 続いて自転車は環八を北上して、神田川の支流である善福寺川の両岸に細く広がる善福寺川緑地と和田堀公園へ向かいました。

 この二つの公園は、先の防災緑地に先立つ昭和14(1939)年の東京緑地計画の中で、河川に沿って公害からくさび上に市街地に入り込むように計画された緑地です。

  

 今では貴重な緑のネットワークを形成しています。実際に善福寺川沿いのサイクリングロードを自転車で走ってみるとこれが実に長い!戦前の内務官僚は考えることのスケールが大きかったですね。

 そしてこの河川沿いにどんどんと下って行くと見えてくるのが「普門館」という巨大なホールです。

  

 このホールは立正佼成会という宗教法人のホールなのですが、もう一つの顔は、毎年秋にここで全国吹奏楽コンクール大会が開催される、その会場、つまり吹奏楽の甲子園というわけ。

 なぜここが全国コンクールの会場なのか、には諸説あるようですが、一度に約5千人を収容できるホール施設というのはそう多くはなく、しかも今では吹奏楽関係者の間で「目指せ!普門館!」がもう合い言葉になってしまっているから、ということのようです。

 実は金曜日に東京都の地図を見ていて、普門館の場所を見つけたので今日のまち巡りはこちらにしたのです。娘が志しながらついに来ることのなかった会場を、せめて代わりに見ておこうと思ってはるばるやって来たというわけ。

  

 「目指せ普門館」ということがなければ単なる大きなホールでしかないのですが、夢と希望と憧れという、多くの人たちの思いのこもった場所かと思うとまた違って見えてきます。

 別に娘の恨みを晴らそうという思いはありませんが、(そうか、娘が夢に見た場所がここなのか…)とある意味で感慨もひとしお。これも親バカなんでしょうね。

 おーい、娘よ!代わりに来てやったぞー!はっはっはー!
コメント (2)
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