とにかく壊れたレコードみたいに同じ答えを繰り返すことで脱力感や無力感に陥らせようとする策略というか血肉した習性なのだろう。
人は死ぬけれども国家というシステムの方は死なない。
これだけでも大変なハンデで、しかも原監督が作中で発言しているように、国を訴える、といってもその裁判所という制度そのものが国の一部ではないか。
初めから敵の土俵で戦うことを強いられているわけで、どうにも納得がいかない。
原告が一人また一人で死んでいくところを「仁義なき戦い」ばりのストップモーションや字幕を使っていて、あまり直接描くのは倫理的にも家族の意思からしても難しいこともあるだろうが、あれにも通じる一種の無念さ、軽く扱われる命という感じが出た。
上映後に原監督と柳下美恵氏(普段は主にサイレント映画に即興でピアノ演奏をつけている人)のトークショーが開催。
言われなければ気がつかなかっただろうけれどもラストで流されるピアノ・ソロが「七人の侍」のテーマ似ていると思ったと監督は語る(個人的にはシューベルトのピアノ三重奏に似ていると思った)。
七人の侍の名前が出たけれども、登場人物が大勢いてそれを一人一人描きこんでいくと自ずと3時間半という尺数をとる事になるのではないか。
それにしてもなんで日本人ってこんなにも怒らないのだろうと後半の初めから監督がいわば乱入し挑発していく「中立性」くそくらえの作風が一種痛快なのと原告団の反応がまだ鈍くてまだるっこいのと、二律背反。
原告団の中でかなり頻繁に怒って見せている人はいるけれどもあの日の場合が実際に起こってるというのは他の原告に対してもっと怒っていいのだというのを身をもって示しているっていうのが監督の解釈。
実際、塩崎厚生大臣(当時)が謝罪したことで原告団が割と満足してしてしまってるいるのは不思議なくらいでいい加減くたびれてエネルギー切れたからか初めからあまり怒っていないのか、人にもよるだろうが、いかにも今の日本人という感じ。
塩崎が何かというと名刺を置いていくのが、それ自体カリカチュアみたいに見える。
撮影が終わった作品が完成した後の原告団との付き合いは続いているのはこれまでの作品とは違うとのこと。奥崎謙三などムショに行ってしまったものなあ。
現状を見るに政治家や官僚が国民をとことんなめくさってることは見え見えなのだけれどもこの映画の中では逆に中間管理職ばかりが出てくるので上の方の傲慢はかえって見えにくい。
ニッポン国VS泉南石綿村 公式ホームページ
ニッポン国VS泉南石綿村 - 映画.com
本ホームページ