prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ストライキ」

2019年02月02日 | 映画
日本の左翼評論家だった岩崎昶はエイゼンシュテインをダ・ヴィンチ的巨人、あるいは大河的人間と評したが、いわゆる職能としての映画監督を超えて映画という表現形式の創造者、少なくともその最も重要な一人であり、その前段階として舞台演出家であり俳優でもあり、理論家であり、画家でもありと、それらを総合し咀嚼し映画表現に昇華させたのだが、この長編第一作では強烈なほとんどマンガ、あるいはカリカチュアとも見えるデフォルメが全編にわたって展開する。

ことに労働者たちに潜り込む内通者たちの造形が文字通り動物に喩えられるのを通り越してそのまま一体化して表現されたり、穴からぽこぽこ顔を出すあたりの、一種「おそロシア」的に異様な土俗的でグロテスクなクリーチャーとして現れるあたりは、のちのソ連の公式的な「社会主義的リアリズム」とはおよそ隔たっており、それ以外にも動物そのものが人間の住処の至るところに姿を現し、金持ちのテーブルではミゼットのカップルが踊るといった具合にエイゼンシュテイン自身が解説するようにミュージックホールやサーカスのような猥雑なカオス感がある。

特定の主人公がおらず、マッスとしての労働者を主体としているのは、社会主義プロパガンダ作品でもある、というより映像によるプロパガンダというのはここに出発していると言っていいのだが、集合的存在としての人間をスクリーンの中と外にそれぞれ置く一方、アップにされる多彩な人間たちがそれこそマンガやアニメのキャラクターのような浮き出し方をしながら混在しているユニークさ。

今のいわゆる格差社会とこの百年前の状況とはもちろん単純に同じとは言えないが、金持ち資本家と労働者の隔絶というテーマはぐるっと回ってまたかなり接近した感と、はるかに遠ざかった感の両方がある。

冒頭、日活労働組合が協力とタイトルに出る。サイレント映画だからスポークン・タイトルが挟まるわけだが、これがロシア語抜きの日本語だけ。どういう経緯でそうなったのか。

動く機械にカメラを据えた、機械が目を持ったような映像があちこちに見られる。これは「戦艦ポチョムキン」のことに後半でほとんど無機物が生き物のようなダイナミズムを持つ萌芽だろう。

終盤の切られた喉からおびただしい血が流れ出る牛の屠殺と労働者の弾圧とをカットバックしたのは、おそらく「地獄の黙示録」のクライマックスの下敷きになっている。
コッポラはカットバック大好きだし、映画の存在のし方そのものを変革しようとする欲望が強いところもエイゼンシュテインと通じている。

映画の日とあって久しぶりの早稲田松竹はかなりの入り。
このところ足が遠のいていたが、場内を改装して椅子を換えたというので久しぶりに行ってきた。なるほどロードショー劇場なみの椅子。最前列で見たので今回はわからなかったが、シネコンなみに前列の人の頭がスクリーンにかぶらないものかどうか。

それにしてもいまどき、よくエイゼンシュテイン全作品上映などやったもの。あるいは今だからか。

35mmフィルム上映。かなり状態のいいプリントだが、フリッカーやコマとび、画面に雨が降るなどDCP上映に慣れてしまった目にはなんだか逆に新鮮。
シネコンみたいにトリミングするのをサボってスクリーンを横に広げっぱなしにしたりせず、黒いカーテンできっちり上映サイズ(ここでは1:1.33)を合わせている。ちょっと上が切れている感じはしたが。
白黒画面だと物質感がさらにくっきり出る。



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