prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「シカゴ7裁判」

2020年11月06日 | 映画
フランク・ランジェラの裁判長が「却下する」や法廷侮辱罪を濫発する、決して公平でも公正でもない、反政府的な連中を十把一絡げに見せしめ的に罰すること自体を目的にした裁判の象徴としてすこぶる強力な敵役ぶりを見せ、前にランジェラがニクソン役をやっていたのをだぶらせているのだろうとも思った。

いきなり裁判から始まり、ジョセフ=ゴードン・レヴィットの検事すらこの裁判にはムリがあると感じるあたり、敵役は検察クラスではなく、もっと上の意思であることをはっきり示す。

そしてもろにもっと大物、現職の大統領が不正義の象徴になっている時期にあっては、法治国家で判事ましてや最高裁判事が政治的にどんな具合に機能するか、よくわかる。

これは「政治裁判」だという不満の言が被告の一部からしばしば漏れ、弁護士たちがたしなめるが、建前としての法の中立性(弁護士はそれに従わなくてはならない)と実態としての政治性との対立をストレートに見せる。

回想シーンの武装した警官隊の怖さが効いている。散弾銃すら持ち出しているのだから、これまた今の(というか、建国以前から今日まで途切れない)アメリカにも当然ストレートにだぶる。

被告たちがもともと立場も組織もバラバラで、政府に批判的という点だけでひとまとめになっているだけ、というか、思想や言論の自由のもとではもとよりまとまらない方が当然ではないかと思わせる。

ばらばらの立場を全体としてのアンサンブルにまとめあげたキャスティングとそれに応えた演技者たちの見事さ。

エディ・レッドメインの一見ひ弱そうな外観を逆手にとったクライマックスが、改めて何のために被告たちは発言したのか思い返されて胸を打つ。

サッシャ・バロン・コーエンは逆に売り物の下品さを抑え代わりに本音の反骨精神をストレートに出した。

ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世扮する黒人があくまで異議を唱え続けると猿轡をはめ言葉を奪う象徴性と暴力の表現は、裁判の目的と性格、アメリカの支配の論理と体質を典型的に示した。

裁判の進行に沿って随所に事件の実景がカットインするが、それが単純な絵解きでなく、さまざまな角度から事態を批評的に照射していく演出の手際が鮮やかで、すこぶる知的でもある。

脚本監督のアーロン・ソーキンは実話ものの名手だが、場面の設定にすぐれて批評的なセンスを示す。技法的に最も徹底していたのが「ジョブス」だったが、今回は実話をドラマ化するのに加えてさらに現実に改めて投げかけた知的な操作を見せる。

これは今作らなくてはいけないという心ある映画人たちの気魄と才能が結集した重要作。