平伍と文六は、最初の古田の兵の一人を引き上げたあと、交代して仲間を引き上げさせるつもりだった。しかし、やたらはしゃぎながら引き上げられた男は、崖の上に到着するとそのまま興奮して猿のようにとびはねてまわり、いっこうに手伝おうとしない。やむなく二人は、次の兵も息を切らせながら昇降機をぶら下げた滑車についた縄をえいやえいや引いて崖上まで引き上げた。
だが、二人目の兵も代わろうとはしない。それどころか、平伍と文六に対して敵対心をむきだしにして、しまいには脅してなおも昇降機を操作させた。三人目が上ってくると、ますます古田の兵たちは横暴になり、二人を取り囲んで逃げられないようにして、なおも重労働を強いた。取り囲む手間をかけるより、手分けして仲間を引き上げた方が楽ではないかと二人には思えたが、そう考える間もなく次から次へと古田の兵たちを引き上げさせられた。どれほどへたばっても、兵たちは手加減しなかった。むしろ弱みを見せるほどますますいたぶりようはひどくなった。
ついに力尽きて、仲間が落ちそうになってやっと取って代わったが、よくも仲間を危険にさらしたなと、すでに大半揃った兵たちは二人を殴り、蹴った。
そして、半死半生になった二人を、古田と出川と入れ違いに崖下に落としたが、上ってきたお偉方二人は誰が落ちたのかついに気がつかなかった。
次之進と兵馬は森を遡っていた。
水没した足元はぬかるんでいるかと思うと、突然底が抜けたように抵抗がなくなり、倒れそうになる。
森の中の葉や草の青々した匂いはすっかり陰をひそめ、代わりに腐った泥の異臭が漂っていた。心なしか木々の幹の肌も色褪せ、水浸しの根元とは裏腹に妙に白っぽくかさかさしてきている。
青々としていた緑の葉も茶色っぽく捩れるように枯れてきており、瘴気で溢れるようだった森が、濁った泥の匂いで満たされている。
どちらが川上で、どちらが川下なのか、水の様子からは見当がつかない。
どんよりした水と空気の中で次第に苛立ちが募らせた二人は、やがて言い争いだした。
平伍と文六は、森の中を進んでいた。背後から古田の兵たちがついてくる気配がする。二人は、自分たちが盾にされているのがわかった。
崖でも兵たちはもっぱら二人に昇降機の操作を押し付けた。あとからあとから運び上げられてきた兵は、しかし自分たちの仲間を運び上げる作業に手を貸そうさはせず、人数が増えても代わろうとも手伝おうともしない。それどころか、人数にものを言わせて、いいかげんへとへとにへばった二人にさらに操作続行を強制した。へばって宙に浮いたままの後続の兵を地面に叩きつけかねないほどになっても、交代しようとしない。
最後に出川、さらに古田を引き上げる段になると、やっと兵たちは交代したが、それはお偉方を落としたらまずい、という配慮からというからでは必ずしもなかった。落としたらまずいには違いないが、むしろわからないように揺すってみたり、少しずり落としたりしてお偉方がおびえて悲鳴をあげるのを楽しんだ。
へばってへたりこんで平伍と文六は、その浅ましいさまを見て、逃げ出したくなった。
「文六よ」
平伍は小声で文六に訊いた。というより、まともに声が出ないのだ。
「ろくな奴がいないな」
文六は相変わらず、ちょっと緩んだ顔でうなずいた。
「浅ましい」
文六が聞いている。
「逃げ出したいよ。金なんかもういいから」
文六は聞いている。
平伍は一方的に喋り続けた。
「しかし、あの崖の上からでは人の力を借りなくては簡単に降りることもできない」
「俺たちも、傍から見ればあんなのだったのだろうな」
「しかし、崖から降りたところで突然あの堰が壊れて、大水に押し流されたらたまらない」
ひとりごとなのか、自問自答なのか、それとも答えを求めているのかわからない言葉がぶつぶつぶつぶつ暗い水の上を渡っていく。
「行くも地獄、退くも地獄とはこのことか。なあ」
二人は、ふと足を止めた。
前方に人がいる。一人、いや二人だ。
見覚えのある顔だ。つい最近まで指揮をとっていた奴だ。馬場次之進と、浅香兵馬。両方とも、お偉方だ。
そのお偉方が、二人を見ると、ひっというような声をあげ、くるりと背を向けて川上に向かっていった。
「なんだい、俺たちを怖がっているんか」
平伍は、へ、へ、へといった笑い声をあげた。
文六も同様に笑った。
二人の背後に、古田の一隊が迫ってきている。そして、二人を追い抜いてなおも前進していく。平伍と文六は、ことの真相にやがて気づき、小さくなって追い抜かれるままに任せた。
次之進は今、自分が敵に背を向けて逃げているのに気づいた。
(あんなに大勢、どこから現れたのか)
天から降ったのか地から湧いたのか。
水と湿気と光の反映の中で、本当にこの世で起こっていることなのか、わからなくなってきていた。
森の匂いの中に、何か別の匂いが混ざってきていた。何か金気くさいような、生き物とは別のような、生き物そのもののような匂いだ。
次之進は立ち止まった。暗い森の中で、何かが動いたような気がしたからだ。兵馬はしかし、構わず進んで行く。次之進が呼び止めようとしても構わず、警戒する風でもなく歩いていくと、前を立ちふさがるように一つの影が現れた。
じいっと次之進はその影を見つめていたが、突っ立っているだけで動こうとしない。いや、きちんと自分の足で立っている風でもなく、半ば吊られているような頼りなげな佇まいでいる。
さらに進もうとした次之進の首筋に、突然冷たいものが押し当てられた。
「動くな」
言われる前に動けなくなっていた。
聞き覚えのある声だ。
「久しぶり。金を持っているだろう。出せ。出さないと、ああいうふうになるぞ」
前に立っていた人影が、突然心棒を抜かれた人形のようにぐしゃりと崩れて水面に突っ付した。
その時になって、そこに漂っていた匂いが血の匂いであることに次之進は気づいた。
倒れた男は喉を切られているらしい。匂いのもとに気づくと、その切られた傷口から流れ出た血の色、水の中に広がっていくようすや、力の抜けて捩れた手足まで、見えないのに手にとるようにありありと感じられて、次之進は吐き気を覚えた。
屍の向こうに誰か傀儡使いよろしくのっそりと姿を現したが、顔もわからず、誰であるかもよくわからなかった。このあたりにいる男はすべて、いやというほど顔見知りだったはすだが、わずかの間にすっかり見覚えのない、別人のように見えるようになってしまっていた。
次之進が懐に手をやろうとすると、
「ゆっくりだ」
その声だけははっきり覚えがあった。よそものだった、あいつだ。
次之進は、ゆっくり金を出した。
「おまえも」
言われる前に、兵馬も金を出していた。
二人から金を取り上げると、
「よし、行け」
と、解放しそうな素振りを見せた。
そろそろと離れかけた次之進は、何か別に大勢の禍々しいものが迫ってきているのに気づいた。
水の中で、魚が逃げる気配がする。
「伏せろっ」
と次之進は兵馬に命じた。
ほとんど同時に二人が水の中に身体を投じて姿を隠したのと前後して、矢が木の間を縫って飛んできた。。
やっと顔を上げた次之進は、今自分から金を奪った相手(圭ノ介とかいったか、とやっと名前を思い出した)はどこに行ったか、素早く探したが、目に入るところにはいなくなっていた。
弓矢を構えた古田の兵がそろそろとやってくる。次之進は死んだふりをしてやり過ごすしかないとじっと薄目を開けて伏せていると、木の陰に入った兵が出てこない。
どうなっているのか、と思っていると、他の兵たちが妙に慌てている。
血の匂いが強くなった。
木陰から兵がふらふらと現れ、膝が折れたようにへたりこんだ。腰の刀がつっかえ棒になり、空を仰いだような格好で動かなくなる。
他の兵が警戒しながら接近してきた。空が暗くなってきてただでさえ悪い視界がますます悪くなり、顔もわからない。
その一人が突然ずぶっと見えない穴に落ちて、体勢を崩す。足が穴にはまって動けないところに、引き倒され、暴れる水音とうめき声が聞こえ、やがて静かになった。
次之進はこれ以上ここにはいられないと文六を振り返った。兵馬はすでにそろそろと兵が来たのとは反対の上流に向かっている。
次之進もそれに続いた。
血の匂いは、上流に来ても収まらなかった。
それまで先を歩いていた兵馬が立ち止まった。
「どうした」
次之進が傍らに立った。
「あ…、」
目の前のあちこちに半裸あるいは全裸の死骸が水に漬かって、半ば泥水に埋まり、半ば水面に浮いている。
かつてみな顔見知りだった男たちは、丸みを帯びた荷物か袋のような見慣れない物体になって、あちこちに散らばっている。
兵馬は嘔吐した。次之進も酸っぱい液体を足元にたまった水にしたたかに胃の中身を吐き出した。
「なんという…」
圭ノ介がひとりひとり、殺して金を奪ったのだ。ある者は首筋を切られ、ある者は心の臓を一突きにされている。水に漬かったかき切られてぱっくり開いた喉から、肺から逆流してきた空気がぽつぽつと泡になって吹き出ていた。
「もういやだ」
兵馬が泣き声のような声をあげた。
これまで戦場に出たことはあっても、だいたいにおいて集団で戦っていたので大崩れして殲滅されるという経験は二人ともなかった。
それが数だけは一応揃えていたのが、いくらろくに装備が整っていないとはいえ、一人にここまで殺戮されるとは、思ってもみなかった。
「あいつは何だ、鬼か、天狗か」
兵馬が、がくがくしだした。
次之進は、森の外の明るい、前は川が流れていたあたりの水面に目をやった。
「おい…」
自分が見ているものがまた信じられなくて、次之進は兵馬の脇を肘でつついた。
鏡のような水面を、誰も乗っていない舟が滑っている。水が流れていれば、川下から川上に向かって、水面を切り裂き、滑らかな波紋を広げながら動いている。しかし、舟の上に人の姿はない。
(どうなっているのか)
次之進はめまいをおぼえた。だが、一瞬のち、あそこに奴がいる、と直感した。
そう決めると、次之進はとっさに後を追い出した。
動き出すとともに、不思議とためらいや恐れはどこかに飛び去り、四肢を動かす動物的な感覚だけが次之進を支配した。
泳いだ方がいいのか、浅瀬を走った方がいいのか、どちらにしてもあまり早くは動けないはずだが、浅瀬を泥に足をとられて走る次之進は、水面を蹴って走っているような錯覚を覚えた。
兵馬が、待ってくれと悲鳴のような声をあげて追ってくる。
舟が向きを変え、森の方に滑ってきた。
次之進が先回りして短刀を持って身構えた。
舟が止まった。中で何か光っている。何かなどと考えるまでもない、このために全員が重労働と水と泥との不快な環境に耐え、そして命を落とした元凶のものが光っている。空が暗くなってきたせいか、鈍い輝きがちらちらする程度だが、いったん目に入ると、目をそらすのは不可能だった。
と、次之進はふっと果たしてあれが元凶なのだろうかとも思った。俺はあれがそれほどに欲しかったのか。命のやりとりをしなくてはならないほどに。第一、あれのどこがありがたいのか価値があるのかを、次之進はまるで想像できていないことに、今更のように気がついた。
本来、命のやりとりをしなくてはいけない時になって、すぽっと何かがすっこ抜けたように白けた疑問に囚われて、また四肢が嘘のように萎え始めた。
(これではいかん)
次之進はなんとか力を振り絞って目を舟の中の光からそらせようとしたが、またすぐすいつけられた。
(はてな)
何か、舟のたたずまいに違和感がある。
さっきとは波の立ち方が微妙に違う。
兵馬は次之進の後ろに隠れるようにして、じっと舟を見ていた。
「あの舟はなんだろう」
「あれに集めた金を積んで川を下るつもりなのだろう。舟だったら全部の金でも一人で十分に運べる」
「いつのまに用意したのか」
次之進が話に気をとられて、自分に隙ができているのに気づいてはっとした。
と思うより早く、突然、兵馬が後ろに引き倒された。水の中に隠れて接近していた圭ノ介に足元を掬われ、引き倒されたのだ。
次之進が駆けつけようとすると、
「動くな」
兵馬の喉に刀を押し当てて、圭ノ介が野太い声で脅した。だが、わずかにその声の中にかすれたような震えが混ざっているのに、次之進は気づいた。
「血の匂いがするぞ」
次之進は言った。
「ほとんど全員斬ってきたからな」
「だったら、なぜすぐ斬らない」
次之進の呼びかけに、兵馬の顔がひきつった。
「斬らないでくれ。あれだけ俺と…」
「あれだけおまえと、どうした」
圭ノ介はぴっと兵馬の喉を少し切った。喉にできた赤い筋がみるみる膨らみ、固まってすいと流れた。
次之進の顔もひきつっていた。震える声で訊いた。
「なぜすぐ殺さない」
兵馬は、それを殺せという意味だと受け取ったらしい、おこりにあったように震え出した。
次之進はそれまで漂っていた血の匂いが、少し異質であることに気づいた。
「ケガしているのか」
圭ノ介は答えない。
なるほど、あれだけ大勢の、しかもきちんと武装した小隊と一人でわたりあったら、負傷しない方がおかしい。
「しているに決まっているだろう」
兵馬が泣きが入った声で喚いた。
「おまえに聞いているんじゃない」
次之進はそう言ったあとで、兵馬が泣き笑いのようなくしゃくしゃの顔をしているのに気づき、おまえのケガなどどうでもいいという意味に受け取ったのだと知って、あわてて言い直した。
「そうじゃない。こいつが手負いかどうか知りたいだけだ」
「そうだろうよ」
今度はふてた口調で、言い返した。
その殺伐とした表情を見ながら、次之進は今更ながらやりきれなく胸がつまるような思いがした。
「刀をよこせ」
圭ノ介が命じた。
次之進は応じない。わざわざ刀を取り上げようというのは、力が落ちているからだ。
「よこせ」
渡そうとしない。
圭ノ介は真一文字に兵馬の喉を切り、吹き出した血を次之進に吹きつけた。
一瞬、目潰しになりかけるところを、次之進はなんとか腕で防ぐ。改めて構えかけたところに、圭ノ介が踏み込んできた。
(斬られる)
と、思ったのは、しかし圭ノ介の刀を払ってからだった。
(しのげた、こいつの斬り込みを)
自分が受けられたことに、次之進は驚いた。
(やはり、どこか負傷しているのだ)
そう思うと、落ち着きが戻ってきた。
圭ノ介も改めて構え直した。そうなると、両者とも動けない。
次之進の視界に、喉を切られて痙攣している兵馬の姿が入っている。しかし、目には映っいても見てはおらず、心から追い出していた。
冷静になって観察すると、圭ノ介の負傷は思った以上のようだった。何本か受けた矢をへし折り、あるいは引き抜いたらしい痕がそこここに見える。
じっと見ていると、圭ノ介も次之進から視線は外さないにせよ、視界に入っているであろう舟の中の黄金を忘れているはずはない。
だが、うかつに踏み込むわけにはいかなかった。
遥か頭上で雷が鳴った。さきほどから急に空が暗くなってきていたが、突然嵐の前触れがきたようだ。
それとともに、何人もの人間のざわめきや息遣いが近づいてきていることにも、二人は気がついていた。
(このままではまずい)
二人は、呼吸を合わせたようにぱっと離れ、圭ノ介は停めてあった舟へと、次之進はより上流へと足を向けた。
次之進が振り返った時、川面というか、湖面というか、水面の真ん中あたりに漕ぎ出た舟に向かってしきりと矢が射掛けられているのが見えた。
次之進の足元は相変わらず悪く、追っ手を振り切るのは難しい。次之進はとっさに手近にあった最も高い木にとりつき、登って枝葉の中に隠れた。
雨がますます激しくなってきた。天がひっくり返したように、大粒の雨が降り注いできて、不安定な枝にとりついた次之進の頬をぴしぴし叩いた。枝が滑り、ともすれば平衡を失って落ちそうなるのを懸命にしがみつきながら、次之進はなおも枝葉の間を透かして圭ノ介の舟を注視した。
「逃がすな、放て」
古田はしきりと下知を下した。
「放て」
出川が続けて下知した。
兵はどちらの下知もろくに聞かず、それぞれの判断で矢を放ち続ける。すでに獲物になっている男が、何を持っているのかは洩れていた。そしてあわよくば独り占めしたいと、誰もが思っていた。
圭ノ介にまた、何本もの矢が刺さった。いいかげん倒れてもよさそうなのに、何かに操られているかのような奇妙に空虚な動きをやめようとはしない。
舟はほぼ湖水というか川面の中心に来ているので、誰も近づくことはできない。
豪雨にさらされた水面がけば立ち、折からの突風に波打ちだした。とても山の中の小さな人造湖とは思えない威容だった。
空が光った。わずかな間をおいて、腹の底にまで響くような雷鳴が轟く。
木々が風にあおられて激しく身悶えするように揺れ、捩れる。
次之進はばさばさ煽られる木の枝に激しく顔面を殴打されて目がくらみ、滑り落ちかけて濡れて滑る枝に必死でしがみついた。
矢を射かけていた兵たちも、あまりの風雨に体勢が整わず、浮き足立ち気味だ。
空が白くなった。と、同時に雷が舟とその上の圭ノ介に落ちた。舟も人も、ともに白く閃光を放ったかと思うと、一瞬真っ黒になり、一呼吸おいて炎が吹き上がった。豪雨にも関わらず、炎の勢いは衰えず、舟も人も燃え上がって風と波に揉まれて揺れている。その中でも、人影は炎の中で真っ黒になりながら、操り人形のような生きているとも命が抜けているともつかず身体を揺らしている。
その時、圭ノ介は自分がしがみついている木そのものが動いているのに気づいた。根のあたりの土がすっかり溶けてしまい木が浮き上がってきたのだ。
木々が動き出したのは、次之進のしがみついているあたりばかりではなかった。森全体が浮き上がって揺れ動きながら、巨大に膨れ上がった水の中に、動物が集団入水でもするかのように雪崩れこんでいく。それとともに、出川も古田も、その配下の兵たちも、泥と歩き出した木に押し流されて、あとからあとから水の中に引きずり込まれていく。
悲鳴も絶叫も、風雨に掻き消された。次之進の見下ろす中、轟音のため何も聞こえない中、泥と木と人とが混ざって渦巻いている。
次之進はなぜここまで来て堰が切れないのか不思議だったが、その時轟音の向こうにきしむ音を聞いた。
真っ黒な影になった舟の上に圭ノ介が、大きな波を受けてもんどりうって水中に没した。
次之進は思い切って枝の上から渦巻く水に跳んだ。水中の静寂の中で、次之進はきしむ音が何であるかを直感的に知った。
ぎしぎしいっていた堰がいよいよ限界にきたのだ。というより、なぜか壊れないでいた堰がやっと自然の理に従うようになったということだろうか。
材木を貫いていた鉄の棒は、曲がるより先に短くちぎれた。ためにためられた水と堆積していた泥と木がのたうち崖から噴出した。
それとともに、水はその中に抱えていた泥と木とを根こそぎ持っていって、それ自体巨大な生き物のように崖から身を投げた。それはかつてここに流れ落ちていた滝に百倍する巨大さと力を持って荒れ狂い、崖下で砕けてもなお勢いは衰えず、奔流となってさらに下流を襲った。
田畑はあっという間に濁流に押し流された。
与平は突然の豪雨に田を見に来て、突進してくる水の山に一瞬で呑まれた。ぶつかった瞬間、肋骨にひびが入り、溺れるより早く呼吸が止まった。
降り注ぐ豪雨を受けて水に勢いは衰えず、里にある市や国守の屋敷も一呑みにした。
雨がやみ、川のそばからすべての人影が消えた。
その中を、一艘の舟が無人のまま流れていく。それに何が積まれているのか、なぜ崖から落ちて壊れも沈みもしないのか、もちろん誰にもわからなかった。
舟は無人の川を流れ、海に出た。日が沈み、舟を金色の光で包んだ。
(終)
だが、二人目の兵も代わろうとはしない。それどころか、平伍と文六に対して敵対心をむきだしにして、しまいには脅してなおも昇降機を操作させた。三人目が上ってくると、ますます古田の兵たちは横暴になり、二人を取り囲んで逃げられないようにして、なおも重労働を強いた。取り囲む手間をかけるより、手分けして仲間を引き上げた方が楽ではないかと二人には思えたが、そう考える間もなく次から次へと古田の兵たちを引き上げさせられた。どれほどへたばっても、兵たちは手加減しなかった。むしろ弱みを見せるほどますますいたぶりようはひどくなった。
ついに力尽きて、仲間が落ちそうになってやっと取って代わったが、よくも仲間を危険にさらしたなと、すでに大半揃った兵たちは二人を殴り、蹴った。
そして、半死半生になった二人を、古田と出川と入れ違いに崖下に落としたが、上ってきたお偉方二人は誰が落ちたのかついに気がつかなかった。
次之進と兵馬は森を遡っていた。
水没した足元はぬかるんでいるかと思うと、突然底が抜けたように抵抗がなくなり、倒れそうになる。
森の中の葉や草の青々した匂いはすっかり陰をひそめ、代わりに腐った泥の異臭が漂っていた。心なしか木々の幹の肌も色褪せ、水浸しの根元とは裏腹に妙に白っぽくかさかさしてきている。
青々としていた緑の葉も茶色っぽく捩れるように枯れてきており、瘴気で溢れるようだった森が、濁った泥の匂いで満たされている。
どちらが川上で、どちらが川下なのか、水の様子からは見当がつかない。
どんよりした水と空気の中で次第に苛立ちが募らせた二人は、やがて言い争いだした。
平伍と文六は、森の中を進んでいた。背後から古田の兵たちがついてくる気配がする。二人は、自分たちが盾にされているのがわかった。
崖でも兵たちはもっぱら二人に昇降機の操作を押し付けた。あとからあとから運び上げられてきた兵は、しかし自分たちの仲間を運び上げる作業に手を貸そうさはせず、人数が増えても代わろうとも手伝おうともしない。それどころか、人数にものを言わせて、いいかげんへとへとにへばった二人にさらに操作続行を強制した。へばって宙に浮いたままの後続の兵を地面に叩きつけかねないほどになっても、交代しようとしない。
最後に出川、さらに古田を引き上げる段になると、やっと兵たちは交代したが、それはお偉方を落としたらまずい、という配慮からというからでは必ずしもなかった。落としたらまずいには違いないが、むしろわからないように揺すってみたり、少しずり落としたりしてお偉方がおびえて悲鳴をあげるのを楽しんだ。
へばってへたりこんで平伍と文六は、その浅ましいさまを見て、逃げ出したくなった。
「文六よ」
平伍は小声で文六に訊いた。というより、まともに声が出ないのだ。
「ろくな奴がいないな」
文六は相変わらず、ちょっと緩んだ顔でうなずいた。
「浅ましい」
文六が聞いている。
「逃げ出したいよ。金なんかもういいから」
文六は聞いている。
平伍は一方的に喋り続けた。
「しかし、あの崖の上からでは人の力を借りなくては簡単に降りることもできない」
「俺たちも、傍から見ればあんなのだったのだろうな」
「しかし、崖から降りたところで突然あの堰が壊れて、大水に押し流されたらたまらない」
ひとりごとなのか、自問自答なのか、それとも答えを求めているのかわからない言葉がぶつぶつぶつぶつ暗い水の上を渡っていく。
「行くも地獄、退くも地獄とはこのことか。なあ」
二人は、ふと足を止めた。
前方に人がいる。一人、いや二人だ。
見覚えのある顔だ。つい最近まで指揮をとっていた奴だ。馬場次之進と、浅香兵馬。両方とも、お偉方だ。
そのお偉方が、二人を見ると、ひっというような声をあげ、くるりと背を向けて川上に向かっていった。
「なんだい、俺たちを怖がっているんか」
平伍は、へ、へ、へといった笑い声をあげた。
文六も同様に笑った。
二人の背後に、古田の一隊が迫ってきている。そして、二人を追い抜いてなおも前進していく。平伍と文六は、ことの真相にやがて気づき、小さくなって追い抜かれるままに任せた。
次之進は今、自分が敵に背を向けて逃げているのに気づいた。
(あんなに大勢、どこから現れたのか)
天から降ったのか地から湧いたのか。
水と湿気と光の反映の中で、本当にこの世で起こっていることなのか、わからなくなってきていた。
森の匂いの中に、何か別の匂いが混ざってきていた。何か金気くさいような、生き物とは別のような、生き物そのもののような匂いだ。
次之進は立ち止まった。暗い森の中で、何かが動いたような気がしたからだ。兵馬はしかし、構わず進んで行く。次之進が呼び止めようとしても構わず、警戒する風でもなく歩いていくと、前を立ちふさがるように一つの影が現れた。
じいっと次之進はその影を見つめていたが、突っ立っているだけで動こうとしない。いや、きちんと自分の足で立っている風でもなく、半ば吊られているような頼りなげな佇まいでいる。
さらに進もうとした次之進の首筋に、突然冷たいものが押し当てられた。
「動くな」
言われる前に動けなくなっていた。
聞き覚えのある声だ。
「久しぶり。金を持っているだろう。出せ。出さないと、ああいうふうになるぞ」
前に立っていた人影が、突然心棒を抜かれた人形のようにぐしゃりと崩れて水面に突っ付した。
その時になって、そこに漂っていた匂いが血の匂いであることに次之進は気づいた。
倒れた男は喉を切られているらしい。匂いのもとに気づくと、その切られた傷口から流れ出た血の色、水の中に広がっていくようすや、力の抜けて捩れた手足まで、見えないのに手にとるようにありありと感じられて、次之進は吐き気を覚えた。
屍の向こうに誰か傀儡使いよろしくのっそりと姿を現したが、顔もわからず、誰であるかもよくわからなかった。このあたりにいる男はすべて、いやというほど顔見知りだったはすだが、わずかの間にすっかり見覚えのない、別人のように見えるようになってしまっていた。
次之進が懐に手をやろうとすると、
「ゆっくりだ」
その声だけははっきり覚えがあった。よそものだった、あいつだ。
次之進は、ゆっくり金を出した。
「おまえも」
言われる前に、兵馬も金を出していた。
二人から金を取り上げると、
「よし、行け」
と、解放しそうな素振りを見せた。
そろそろと離れかけた次之進は、何か別に大勢の禍々しいものが迫ってきているのに気づいた。
水の中で、魚が逃げる気配がする。
「伏せろっ」
と次之進は兵馬に命じた。
ほとんど同時に二人が水の中に身体を投じて姿を隠したのと前後して、矢が木の間を縫って飛んできた。。
やっと顔を上げた次之進は、今自分から金を奪った相手(圭ノ介とかいったか、とやっと名前を思い出した)はどこに行ったか、素早く探したが、目に入るところにはいなくなっていた。
弓矢を構えた古田の兵がそろそろとやってくる。次之進は死んだふりをしてやり過ごすしかないとじっと薄目を開けて伏せていると、木の陰に入った兵が出てこない。
どうなっているのか、と思っていると、他の兵たちが妙に慌てている。
血の匂いが強くなった。
木陰から兵がふらふらと現れ、膝が折れたようにへたりこんだ。腰の刀がつっかえ棒になり、空を仰いだような格好で動かなくなる。
他の兵が警戒しながら接近してきた。空が暗くなってきてただでさえ悪い視界がますます悪くなり、顔もわからない。
その一人が突然ずぶっと見えない穴に落ちて、体勢を崩す。足が穴にはまって動けないところに、引き倒され、暴れる水音とうめき声が聞こえ、やがて静かになった。
次之進はこれ以上ここにはいられないと文六を振り返った。兵馬はすでにそろそろと兵が来たのとは反対の上流に向かっている。
次之進もそれに続いた。
血の匂いは、上流に来ても収まらなかった。
それまで先を歩いていた兵馬が立ち止まった。
「どうした」
次之進が傍らに立った。
「あ…、」
目の前のあちこちに半裸あるいは全裸の死骸が水に漬かって、半ば泥水に埋まり、半ば水面に浮いている。
かつてみな顔見知りだった男たちは、丸みを帯びた荷物か袋のような見慣れない物体になって、あちこちに散らばっている。
兵馬は嘔吐した。次之進も酸っぱい液体を足元にたまった水にしたたかに胃の中身を吐き出した。
「なんという…」
圭ノ介がひとりひとり、殺して金を奪ったのだ。ある者は首筋を切られ、ある者は心の臓を一突きにされている。水に漬かったかき切られてぱっくり開いた喉から、肺から逆流してきた空気がぽつぽつと泡になって吹き出ていた。
「もういやだ」
兵馬が泣き声のような声をあげた。
これまで戦場に出たことはあっても、だいたいにおいて集団で戦っていたので大崩れして殲滅されるという経験は二人ともなかった。
それが数だけは一応揃えていたのが、いくらろくに装備が整っていないとはいえ、一人にここまで殺戮されるとは、思ってもみなかった。
「あいつは何だ、鬼か、天狗か」
兵馬が、がくがくしだした。
次之進は、森の外の明るい、前は川が流れていたあたりの水面に目をやった。
「おい…」
自分が見ているものがまた信じられなくて、次之進は兵馬の脇を肘でつついた。
鏡のような水面を、誰も乗っていない舟が滑っている。水が流れていれば、川下から川上に向かって、水面を切り裂き、滑らかな波紋を広げながら動いている。しかし、舟の上に人の姿はない。
(どうなっているのか)
次之進はめまいをおぼえた。だが、一瞬のち、あそこに奴がいる、と直感した。
そう決めると、次之進はとっさに後を追い出した。
動き出すとともに、不思議とためらいや恐れはどこかに飛び去り、四肢を動かす動物的な感覚だけが次之進を支配した。
泳いだ方がいいのか、浅瀬を走った方がいいのか、どちらにしてもあまり早くは動けないはずだが、浅瀬を泥に足をとられて走る次之進は、水面を蹴って走っているような錯覚を覚えた。
兵馬が、待ってくれと悲鳴のような声をあげて追ってくる。
舟が向きを変え、森の方に滑ってきた。
次之進が先回りして短刀を持って身構えた。
舟が止まった。中で何か光っている。何かなどと考えるまでもない、このために全員が重労働と水と泥との不快な環境に耐え、そして命を落とした元凶のものが光っている。空が暗くなってきたせいか、鈍い輝きがちらちらする程度だが、いったん目に入ると、目をそらすのは不可能だった。
と、次之進はふっと果たしてあれが元凶なのだろうかとも思った。俺はあれがそれほどに欲しかったのか。命のやりとりをしなくてはならないほどに。第一、あれのどこがありがたいのか価値があるのかを、次之進はまるで想像できていないことに、今更のように気がついた。
本来、命のやりとりをしなくてはいけない時になって、すぽっと何かがすっこ抜けたように白けた疑問に囚われて、また四肢が嘘のように萎え始めた。
(これではいかん)
次之進はなんとか力を振り絞って目を舟の中の光からそらせようとしたが、またすぐすいつけられた。
(はてな)
何か、舟のたたずまいに違和感がある。
さっきとは波の立ち方が微妙に違う。
兵馬は次之進の後ろに隠れるようにして、じっと舟を見ていた。
「あの舟はなんだろう」
「あれに集めた金を積んで川を下るつもりなのだろう。舟だったら全部の金でも一人で十分に運べる」
「いつのまに用意したのか」
次之進が話に気をとられて、自分に隙ができているのに気づいてはっとした。
と思うより早く、突然、兵馬が後ろに引き倒された。水の中に隠れて接近していた圭ノ介に足元を掬われ、引き倒されたのだ。
次之進が駆けつけようとすると、
「動くな」
兵馬の喉に刀を押し当てて、圭ノ介が野太い声で脅した。だが、わずかにその声の中にかすれたような震えが混ざっているのに、次之進は気づいた。
「血の匂いがするぞ」
次之進は言った。
「ほとんど全員斬ってきたからな」
「だったら、なぜすぐ斬らない」
次之進の呼びかけに、兵馬の顔がひきつった。
「斬らないでくれ。あれだけ俺と…」
「あれだけおまえと、どうした」
圭ノ介はぴっと兵馬の喉を少し切った。喉にできた赤い筋がみるみる膨らみ、固まってすいと流れた。
次之進の顔もひきつっていた。震える声で訊いた。
「なぜすぐ殺さない」
兵馬は、それを殺せという意味だと受け取ったらしい、おこりにあったように震え出した。
次之進はそれまで漂っていた血の匂いが、少し異質であることに気づいた。
「ケガしているのか」
圭ノ介は答えない。
なるほど、あれだけ大勢の、しかもきちんと武装した小隊と一人でわたりあったら、負傷しない方がおかしい。
「しているに決まっているだろう」
兵馬が泣きが入った声で喚いた。
「おまえに聞いているんじゃない」
次之進はそう言ったあとで、兵馬が泣き笑いのようなくしゃくしゃの顔をしているのに気づき、おまえのケガなどどうでもいいという意味に受け取ったのだと知って、あわてて言い直した。
「そうじゃない。こいつが手負いかどうか知りたいだけだ」
「そうだろうよ」
今度はふてた口調で、言い返した。
その殺伐とした表情を見ながら、次之進は今更ながらやりきれなく胸がつまるような思いがした。
「刀をよこせ」
圭ノ介が命じた。
次之進は応じない。わざわざ刀を取り上げようというのは、力が落ちているからだ。
「よこせ」
渡そうとしない。
圭ノ介は真一文字に兵馬の喉を切り、吹き出した血を次之進に吹きつけた。
一瞬、目潰しになりかけるところを、次之進はなんとか腕で防ぐ。改めて構えかけたところに、圭ノ介が踏み込んできた。
(斬られる)
と、思ったのは、しかし圭ノ介の刀を払ってからだった。
(しのげた、こいつの斬り込みを)
自分が受けられたことに、次之進は驚いた。
(やはり、どこか負傷しているのだ)
そう思うと、落ち着きが戻ってきた。
圭ノ介も改めて構え直した。そうなると、両者とも動けない。
次之進の視界に、喉を切られて痙攣している兵馬の姿が入っている。しかし、目には映っいても見てはおらず、心から追い出していた。
冷静になって観察すると、圭ノ介の負傷は思った以上のようだった。何本か受けた矢をへし折り、あるいは引き抜いたらしい痕がそこここに見える。
じっと見ていると、圭ノ介も次之進から視線は外さないにせよ、視界に入っているであろう舟の中の黄金を忘れているはずはない。
だが、うかつに踏み込むわけにはいかなかった。
遥か頭上で雷が鳴った。さきほどから急に空が暗くなってきていたが、突然嵐の前触れがきたようだ。
それとともに、何人もの人間のざわめきや息遣いが近づいてきていることにも、二人は気がついていた。
(このままではまずい)
二人は、呼吸を合わせたようにぱっと離れ、圭ノ介は停めてあった舟へと、次之進はより上流へと足を向けた。
次之進が振り返った時、川面というか、湖面というか、水面の真ん中あたりに漕ぎ出た舟に向かってしきりと矢が射掛けられているのが見えた。
次之進の足元は相変わらず悪く、追っ手を振り切るのは難しい。次之進はとっさに手近にあった最も高い木にとりつき、登って枝葉の中に隠れた。
雨がますます激しくなってきた。天がひっくり返したように、大粒の雨が降り注いできて、不安定な枝にとりついた次之進の頬をぴしぴし叩いた。枝が滑り、ともすれば平衡を失って落ちそうなるのを懸命にしがみつきながら、次之進はなおも枝葉の間を透かして圭ノ介の舟を注視した。
「逃がすな、放て」
古田はしきりと下知を下した。
「放て」
出川が続けて下知した。
兵はどちらの下知もろくに聞かず、それぞれの判断で矢を放ち続ける。すでに獲物になっている男が、何を持っているのかは洩れていた。そしてあわよくば独り占めしたいと、誰もが思っていた。
圭ノ介にまた、何本もの矢が刺さった。いいかげん倒れてもよさそうなのに、何かに操られているかのような奇妙に空虚な動きをやめようとはしない。
舟はほぼ湖水というか川面の中心に来ているので、誰も近づくことはできない。
豪雨にさらされた水面がけば立ち、折からの突風に波打ちだした。とても山の中の小さな人造湖とは思えない威容だった。
空が光った。わずかな間をおいて、腹の底にまで響くような雷鳴が轟く。
木々が風にあおられて激しく身悶えするように揺れ、捩れる。
次之進はばさばさ煽られる木の枝に激しく顔面を殴打されて目がくらみ、滑り落ちかけて濡れて滑る枝に必死でしがみついた。
矢を射かけていた兵たちも、あまりの風雨に体勢が整わず、浮き足立ち気味だ。
空が白くなった。と、同時に雷が舟とその上の圭ノ介に落ちた。舟も人も、ともに白く閃光を放ったかと思うと、一瞬真っ黒になり、一呼吸おいて炎が吹き上がった。豪雨にも関わらず、炎の勢いは衰えず、舟も人も燃え上がって風と波に揉まれて揺れている。その中でも、人影は炎の中で真っ黒になりながら、操り人形のような生きているとも命が抜けているともつかず身体を揺らしている。
その時、圭ノ介は自分がしがみついている木そのものが動いているのに気づいた。根のあたりの土がすっかり溶けてしまい木が浮き上がってきたのだ。
木々が動き出したのは、次之進のしがみついているあたりばかりではなかった。森全体が浮き上がって揺れ動きながら、巨大に膨れ上がった水の中に、動物が集団入水でもするかのように雪崩れこんでいく。それとともに、出川も古田も、その配下の兵たちも、泥と歩き出した木に押し流されて、あとからあとから水の中に引きずり込まれていく。
悲鳴も絶叫も、風雨に掻き消された。次之進の見下ろす中、轟音のため何も聞こえない中、泥と木と人とが混ざって渦巻いている。
次之進はなぜここまで来て堰が切れないのか不思議だったが、その時轟音の向こうにきしむ音を聞いた。
真っ黒な影になった舟の上に圭ノ介が、大きな波を受けてもんどりうって水中に没した。
次之進は思い切って枝の上から渦巻く水に跳んだ。水中の静寂の中で、次之進はきしむ音が何であるかを直感的に知った。
ぎしぎしいっていた堰がいよいよ限界にきたのだ。というより、なぜか壊れないでいた堰がやっと自然の理に従うようになったということだろうか。
材木を貫いていた鉄の棒は、曲がるより先に短くちぎれた。ためにためられた水と堆積していた泥と木がのたうち崖から噴出した。
それとともに、水はその中に抱えていた泥と木とを根こそぎ持っていって、それ自体巨大な生き物のように崖から身を投げた。それはかつてここに流れ落ちていた滝に百倍する巨大さと力を持って荒れ狂い、崖下で砕けてもなお勢いは衰えず、奔流となってさらに下流を襲った。
田畑はあっという間に濁流に押し流された。
与平は突然の豪雨に田を見に来て、突進してくる水の山に一瞬で呑まれた。ぶつかった瞬間、肋骨にひびが入り、溺れるより早く呼吸が止まった。
降り注ぐ豪雨を受けて水に勢いは衰えず、里にある市や国守の屋敷も一呑みにした。
雨がやみ、川のそばからすべての人影が消えた。
その中を、一艘の舟が無人のまま流れていく。それに何が積まれているのか、なぜ崖から落ちて壊れも沈みもしないのか、もちろん誰にもわからなかった。
舟は無人の川を流れ、海に出た。日が沈み、舟を金色の光で包んだ。
(終)