prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「女が映画を作るとき」 浜野 佐知

2007年10月15日 | 


三百本以上のピンク映画と、一般映画「第七官界彷徨 尾崎翠を探して」「百合祭」を監督した女性監督の自叙伝。
生い立ちとかはあまり描かれず、ひたすら監督になりたくて、しかし女性差別の壁にぶつかり悪戦苦闘しながら世界の女性映画人たち(男もいくらか含まれるが)と連帯していくまでを描く。

「神聖なカチンコを女なんかに叩かせるか」とか「映画は男のロマンだ」とかいった、えーっ、そんな古ぼけたこと言ってるのと思わせる映画界の女性差別・セクハラが具体的に描かれ、特にセックス描写における男性中心性が指摘される。女の目から見ると、名作とされている数々の巨匠作品も一面的でしかなく見えてくる。
若松孝二監督など、一般には数々の後進に道を開いてやった日本のロジャー・コーマンといった見方がされているが、筆者にとってはやはり女性差別者としての像が先に来ることになる。

男に媚を売る女たちのことを「バカ女の壁」と形容するのも愉快。
実言うと「浜野佐知」という名前は知っていたが、女だと思ったことなかった。それだけ「ピンクは男のもの」という先入観があったのだね。
ぱっと見、サングラスをしているので、知っていて見てもよくわからないこともある。

高野悦子岩波ホール支配人がどうしても監督になりたくてしかし挫折した思いを語る対談など、他では聞けない発言。

「アーサーとミニモイの不思議な国」

2007年10月14日 | 映画
リュック・ベッソンが宣伝のつもりかしきりと引退宣言出してるそうだけど、いいかげん虚名じみてきたので丁度いいんじゃないの、とっとと引っ込んでくれと言いたくなる出来。

スジも通っていなければ、なんで実写と3D-CGとを合成したのかも狙いがよくわからない、ところどころおそろしくセンスの悪い戦闘ゲームがかったシーンやヘタなダンスが挟まるといった調子。
見ていられない。
(☆☆★)


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アーサーとミニモイの不思議な国 - goo 映画

「放送禁止歌」  森 達也

2007年10月14日 | 


放送禁止歌、といいながら、なんと、どの歌も禁止になったことなどない、いうとんでもない話になる。誰も抗議などしていないし、誰が自主規制したのかすらわからない。なんだこりゃ、という他ない。
あえて何があったのかというと「空気」というか、同調圧力というか、この国を覆っている気味の悪いものだろう。

デーヴ・スペクターが筆者との対談で部落差別について人種も外観も変わりないのに差別がある、というのは世界的に珍しいのではないかと指摘する。来日してからもどんどん差別問題が「潜ってきている」感じだとか、差別というのは差別される側ではなくて差別する側の問題でしょう、といった、テレビでは見せない顔を見せる。


「パーフェクト・ストレンジャー」

2007年10月13日 | 映画
「意外なラスト」を宣伝に使うの、いいかげんやめてくれないかなあ。見るジャマにしかならないのだけれど。
意外性がどうこういう以前に、たどり着くまでにあまり緊迫感がないから着地もびしっと決まらない。

パソコンでのチャットとか毒物のアトロピンのミステリ的扱いなど、なんだか古臭い。登場人物それぞれ、仕事できる設定の割りにやってることが隙だらけ。

ブルース・ウィリスはヅラつけているだけでなくて、お肌がいやにつやつや。
ハル・ベリーだけでなく、ウィリスの金持ち妻役なども有色人種系美人。
(☆☆★★★)


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パーフェクト・ストレンジャー - goo 映画

「生物と無生物のあいだ」 福岡 伸一

2007年10月13日 | 


生命を化学反応の集積と捕らえる生命観は、どうかすると生物を機械的に解析するものかのように誤解されるが、筆者の研究家としての経歴と、分子生物学史上のあまり知られていない学者と業績(縁の下の力持ちをunsung singerと言うのを知る)と科学的解説。筆者の研究者生活とをないまぜた独創的な語り口で説かれる。

生命を時間の中の一回性のものとして絶えず編みなおされるものとして捕らえる動的平衡論は逆に生命と世界と物質との関わりの不思議さと美しさを感じさせる。

DNA鑑定の際必要な増殖技術の原理とその発想がどう生まれてきたのかというあたり、ミステリ的な面白さ。

「マダム・グルニエのパリ解放大作戦」

2007年10月12日 | 映画
ピーター・セラーズが日本の皇太子プリンス・キョウト(!)を含む六役を演じ分けるのが眼目。妙な作法でハラキリするし、一方でヒットラー役もやっているのだから、日本劇場未公開になったのもムリはない。

第二次大戦中のパリの娼館が主に舞台で、さまざまな国籍の男たちが出入りするけれどもやることは基本的には一緒、という扱いはいいけれど、誰がどっちなのかあまり関係なくてメリハリが利かないという結果にもなった。
(☆☆☆)


「もう牛を食べても安心か」 福岡 伸一

2007年10月12日 | 


「安心か」といったら、ちっとも安心ではない。狂牛病が感染して発症するメカニズムがまるで解き明かされていないのだから。ごく限られた範囲の経験則から検査のマニュアルとをとりあえず決めているに過ぎない。
牛肉輸入に関する決着の仕方がおよそ科学的知見とは関係ない政治的ご都合主義の産物であることはよくわかる。

「音楽ホール」

2007年10月11日 | 映画
サタジット・レイ監督が「大河のうた」と「大樹のうた」の間に作った、第四作目。なんでも「大河のうた」が主人公オプーが母親を一人で死なせるのが非難されて興行的に失敗したので、いったん題名通り歌と踊りも入れた一般向けの作品として作られたものかしれないが、内容は厳しい。

伝統と格式ある名家の当主が歌舞音曲にうつつを抜かしているうちに没落していく話だが、ムリに残った財産をかき集めて高いダンサーを雇って成金と張り合って同席して踊らせ自己満足に浸るクライマックスで、ダンスをフルショットで全身を入れるかちっとしたサイズでじっくりと見せてから次第に足元に寄ってしめくくり、さらにはしゃいでチップを渡そうとする成金を当主がステッキで抑え「わしが先だ」と言うアップをびしっと決めるカット構成が鮮やか、さらに宴の後のシャンデリアの灯火が消えていくのを家と当主の命が燃え尽きていくかのように見せ、朝の光が希望ではなく白日夢のような調子で錯乱した当主の精神状態を反映する、といった演出タッチはさすがに堂々たるもの。

飲み物の中をゴキブリみたいな虫が泳いでいたり、黒い大きな蜘蛛が当主の白い服を着た肖像画にとまっている不吉なショットが鮮烈。一方で象や白馬に権勢を象徴させていて、「大地のうた」で人間の代わりにヘビが空家に入っていくラスト同様、生き物と人間の運命がつながっているよう。

まるっきり西洋風のファサードを持つ屋敷の閉ざされた印象の造作と、その前に広がる荒野の対照。
並んだ石柱や鏡などを巧みに使って画面の奥行きを出した画面構成。
主演のチャビ・ビスワースがお公家さんみたいなのっぺりした顔からみるみる凄惨に荒れていく変化をメイクともども見事に見せる。

「戦場にかける橋」('57)の「クワイ河マーチ」として有名な曲「ボギー大佐」('14)のメロディがちらっと流れる。この映画の製作は'58年だから関係あるかどうか微妙。
(☆☆☆★★★)


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音楽ホール Jalsaghar - satyajitray.org

音楽ホール - allcinema

音楽ホール Jalsaghar -IMDb

「遠い道」

2007年10月11日 | 映画
サタジット・レイ監督によるテレビ作品。英語題名はdeliverance。

カースト制をバックにした悲劇だが、大上段にふりかぶった作りではなく、なんでもないようだった体調不良とか一人娘のためにと無理したりとか、片付けなくてはいけない木の質がやたらと硬かったりとか、ちょっとした無神経が重なっていって、じりじりとカタストロフに達するタッチがさすがに隙がない。

上級カーストのはずの僧が死骸をひきずって捨てに行く「汚い」仕事に手を染めるショットの積み重ねに力感があり、何事もなかったようなラストの静かさも怖い。
(☆☆☆★★)


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遠い道 Sadgati - satyajitray.org

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遠い道 - allcinema

「プラネット・テラー in グラインドハウス」

2007年10月10日 | 映画
金と手間をかけてわざと昔のB・C級映画のチープな作りを再現する、というのを映画オタクの稚気ととるか金持ちの道楽ととるかで見方が分かれる気がする。私はどっちかというと後者。
「デス・プルーフ」よりお喋りが少なくて見せ場が多い分、楽しめたが。

今はなきファンタスティック映画祭ででも見たら盛り上がるかもしれないが、女の片足がロケットランチャーつき機関銃になっている画など、バカバカしさが先に立つ。
メイキング見てた方がおもしろいんじゃないかと思ってしまう。安っぽい色の出し方やフィルムについたゴミの再現など、どうやってるのか知りたい気がした。

撃たれたゾンビ(なのかね)が水を詰めた風船みたいにぱんぱん盛大にしぶきを撒き散らしながら破裂するのは新趣向。「一巻紛失」といってストーリーがぽんと飛ぶのは笑った。

久しぶりに「ターミネーター」のマイケル・ビーンが出演、相変わらずいいところがありそうでない役どころ。それほど老けてないが、眉間のシワが深くなった。
ブルース・ウィリスはときどきよくわからない特別出演をするけれど、これもそう。何で出演を決めているのだろう。
(☆☆☆)


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「プリオン説はほんとうか?―タンパク質病原体説をめぐるミステリー」 福岡 伸一

2007年10月10日 | 


プリオン説でノーベル賞を獲ったスタンレー・プルシナーの人間性に疑義をはさんでいる。
科学者といえども今は予算をぶんどってくる政治力・交渉力が要求されるのはご時世だけれど、ずいぶん強引でハッタリくさい自己宣伝家であることは確かみたい。仲間内で良く言う研究者がまったくいないというのはホントかな。
ただ、プリオン説は本当とは言い切れないけれど、代わる有力な説もないのだね。

分子生物学の研究の手順が非常に手間と費用のかかるもので、説が確定するのには十年単位の時間がかかるのが具体的に説明されていて、ため息が出るくらい。

「アメリカ政治の現場から」 渡辺 将人

2007年10月10日 | 


筆者がヒラリー・クリントンの事務所でアウトリーチ(政治的集団を取り込んでくる作業)にあたった体験記。アメリカが二大政党制といっても、それで政治家を見るのに保守か革新かといった二分法が通用するかというとまったくそうではなく、どんな人種・宗教・教育などのバックグラウンドによるかによってそれぞれまるで違うと数々の実例を挙げている。

気になったのは、日本生まれの日本人と、アメリカ人でたまたま日系というのに過ぎない人とではつながりもなく、共通するメディアもないので、マイノリティとしての日本人というのはアメリカでは政治的集団としての体をなしていない、という記述。これが政治的発言力の弱さにもつながっているわけで、中国系と比べてみれば影響力の差は歴然。

プロレスラー「肉体」の真実 ミスター高橋

2007年10月10日 | 
プロレスラー「肉体」の真実
ミスター高橋
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プロレスは全部アングル(筋書き)がある、と暴露してプロレスファンを怒らせ普通の人をそりゃそうでしょと思わせたミスター高橋が、今回はプロレスラーの肉体の「鍛え上げ方」の非合理性を暴く。プロレスをよく見ていた時期、よくあんな真似して平気だなと思ったら、やっぱり平気じゃなかったのね。心臓疾患で四十台で死去しているレスラーの多いことに愕然となる。食生活や筋肉増強剤の副作用もあるが、心臓は「鍛える」ことができないからだ。

遠藤幸吉がレスラーはとにかく食べるからと有無をいわさずプロレスラーの収入の半分を税務署に必要経費で認めさせたというのにびっくり。


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大学病院のウラは墓場―医学部が患者を殺す」 久坂部 羊

2007年10月10日 | 


書名を見ると週刊誌的に大学病院の内部を告発する内容かと思うが、実質はその反対に近い。

大学病院が一般の病院と違うのは、教育・研究という部門が治療部門とは別についていて、そのため未熟な若い医師のオン・ザ・ジョブ・トレーニングの場になっていることだ。それは次の世代の医療を供給するのに必須なのだが、当然一定のリスクを伴う。
それで事故が起こるとマスコミは袋たたきにするが、常にベテランが治療に当たるのは物理的に不可能だし、実践を積まないでベテランにはなれない。

筆者ははっきりと、必要もないのにいつもベテランの最高度の医療を求めるのは患者のエゴであり、マスコミの無責任なあおりのつけは必ず将来の医療や地方やマイナーな医科などにしわ寄せがいくと批判し、リスクがまったく伴わない医療はありえず、必要なのはリスクをゼロにしようとする不可能な努力ではなく患者と納得した形で合意できる保障制度だとする。

ここでの批判の対象は、むしろできもしないことを要求するマスコミと患者のエゴの方だ。そしてこの議論にはかなり説得力がある。

「USAカニバケツ」 町山 智浩

2007年10月10日 | 


上も下も金と色しか頭にない階層社会となったアメリカ(半日後の日本)のしょーもない実例のてんこもり。
特に、スポーツ選手の腐敗ぶりの記述は痛快。「格差」の象徴みたいな世界なのだが、マスコミはちやほやしかしないものね。