prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

7月9日(土)のつぶやき

2016年07月10日 | Weblog

お題「好きな少女漫画は?」

2016年07月09日 | 
山岸凉子の「日出処の天子」ですね。主人公である厩戸皇子(聖徳太子)だけでなく、作者にも一種の霊感があるのではないかと思わせます。

それから吉田秋生の「BANANA FISH」恰好いいだけでなく深く傷ついた男の子を深く描いています。

ともに少女漫画という感じ(とは何だといわれると困りますが)を逸脱した印象ですが。

山上たつひこ 原画展

2016年07月09日 | 
「がきデカ」が一ページ内でギャグを決めているところを分けて販売していた。

それから「新喜劇思想体系」「半田溶介女狩り」「光る風」などの原画が展示してあって、まあマンガの原画というのは通常の絵画以上に印刷された状態との差が大きい。
写植が貼ってあるわけだし、鉛筆書きの印刷の仕方の指示は印刷されると飛んでしまうわけだし、ホワイトで塗り潰したのも同様。

「半田溶介女狩り」で女性器を予めもっと具体的に描いていたらしくホワイトで潰したのがわかる。
また「新喜劇」で、血のりをベタで塗っているのが印刷したよりもっと生々しく見える。

「中春こまわり君」あたりの枯れた画はあまり置いていなかった。ずいぶん時期によって画風が違うはずなのだが、会場が小さいせいか十分に並べきれなかったうらみはあり。

山上たつひこ 原画展 ~『文藝別冊 山上たつひこ』 (河出書房新社) 出版記念~

7月8日(金)のつぶやき

2016年07月09日 | Weblog

「セトウツミ」

2016年07月08日 | 映画
本当にほとんど会話だけで面白く見せてしまうのだから不思議。ちょこまかカメラアングルを変えたりもしないし、小芝居もしない、ときどきバックを人や自転車が通ってたりするくらい。
会話自体、特に洒落たりしているわけでもないただのダベリに近いのに、というかだからこそなんともいえず二人の男の子の世界(女子はあまり入ってきずらい)が、あるある感を持ってくる。

新宿ピカデリー、平日だというのに結構な入り。主役二人の人気はもちろんだろうが、それだけではないだろう。
(☆☆☆★★)

セトウツミ 公式ホームページ



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映画『セトウツミ』 - シネマトゥデイ

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7月7日(木)のつぶやき

2016年07月08日 | Weblog

7月6日(水)のつぶやき

2016年07月07日 | Weblog

7月5日(火)のつぶやき

2016年07月06日 | Weblog

「デッドプール」

2016年07月05日 | 映画
オープニングタイトルで、脚本は縁の下のモグラもちで監督はギャラもらいすぎのバカ、といった意味で出るのにまずウケた。
脚本家=もし監督が殺されたら一番危ない人物(小林信彦流「悪魔の辞典」)、とか「脚本家諸君、監督はみな泥棒である」(フランスの名脚本家シャルル・スパークが来日した時日本の大脚本家・菊島隆三に渡した名刺に書き添えたメモ)、なんて言われるし、当たり前みたいに監督が映画の作者っていうのはおかしいだろと思うからだ。

とにかくしゃべりづめで自分のやっていることを解説する、ときどきカメラ=観客に向かって語りかけ、わざわざ「第四の壁」なんて解説するという自己言及的ヒーロー。このあたり意外とインテリ臭かったりする。

アクションシーンの血みどろぶりは相当なもので、セリフでもうR指定は確実だから画の方もどぎつくしてやろうといわんばかり。

デッドプールの恰好って、背中に刀を二本ぶっちがいにしょってるところといい、忍者が元になっているのだろうけれど、すっかりそういうのが当たり前になっている。
(☆☆☆★)



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映画『デッドプール』 - シネマトゥデイ

7月4日(月)のつぶやき

2016年07月05日 | Weblog

7月3日(日)のつぶやき

2016年07月04日 | Weblog

「64−ロクヨン−後編」

2016年07月03日 | 映画
模倣犯と思われた犯人の正体と動機、というより事件全体の構図が明らかになるところ自体が大きなカタルシスになっていて、原作やテレビ版(部分的に見たが)を見ていなくてもぴしっと全体像を結ぶように出来ているのに感心する。

他のバージョンを見ていたら感想も変わってくるだろうし、ぼちぼち見ていこうとは思うけれど、映画版だけで満足できるようになっているのは(あたりまえのようで)大事なところ。

豪華キャスト、というだけでなくて各演技者の芝居を存分に引き出してバランスをとっているのは最近珍しい監督の本来の力量を感じさせる。

前編で感じた記者クラブ側の要求が必ずしも説得力を持たないのではないか、という疑問は払拭されなかった。
(☆☆☆★★)

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映画『64−ロクヨン−後編』 - シネマトゥデイ

7月2日(土)のつぶやき

2016年07月03日 | Weblog

「教授のおかしな妄想殺人」

2016年07月02日 | 映画
哲学教授がドストエフスキーの「罪と罰」のラスコリニコフばりに価値ある目的のためには殺人も許されるという中二病かと思うような理屈で殺人に手を染めるのが、ウディ・アレンの旧作としては「重罪と軽罪」ばりの半笑いとすごみとをないまぜて描かれる。

講義の中ではカント、フッサール、ハイデガーなど名だたる哲学者たちの名前が挙がるわけだけれど、そのうちの誰に影響を受けたかというわけでもなさそう。

ホアキン・フェニックスが下腹を出っぱらした肉体改造で演じ、登場するなり運転しながらスキットルから酒をきゅっとあおるというまるっきりアル中で、殺人計画も毒薬の手の入れ方などずいぶん雑。飲みすぎて頭ボケてないかと思うくらい。だいたい殺人計画の対象になる判事の悪さというのもどこまで吟味したのか、まるっきり思い込みから出ない。
ヒロインが惚れるのが都合がいいには違いないが、この手の勘違いから来る悲喜劇はいくらもありそう。

エマ・ストーンが真っ白な肌にいつもびっくりしているみたいに大きな目でアレン翁の回春に一役買っているのが一目でわかる一方、主人公が実際に寝るのはもう少し歳が近い(48歳)のパーカー・ポージー。ミューズ(創作力の元になる美神)と実際に関係するのとは別というのがまことに虫がよくて可笑しい。

ダリウス・コンジの撮影(これがアレン作品として最後のフィルム撮影になるか)が素晴らしく、舞台はイタリアかどこかと思うくらい。光と緑が美しい。
(☆☆☆★★)

教授のおかしな妄想殺人 公式ホームページ



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映画『教授のおかしな妄想殺人』 - シネマトゥデイ