prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人」

2024年02月14日 | 映画
平民出身で王侯貴族の間に入ってフランス革命で軟禁されいったんは釈放されるが結局ギロチンにかけられるという波瀾万丈の人生のはずだが、見た感じあまり波瀾万丈な感じはしない。一応野心家なのだが出世が目的というより王との出会いが逆に動機になったみたいな描き方。

ジョニー・デップがルイ15世という、太陽王ルイ14世とフランス革命の時のルイ16世の間にはさまっている王の役で、どこからこのキャスティングを考えたのだろう。柄からいって王様らしい感じはしないが、感じではないのが狙いだったのか。

ヒロインをやっているのが監督本人だと見た後に知った。





「家からの手紙」

2024年02月13日 | 映画
初めのうちは人すら写らず風景だけがえんえんと映され、それに監督シャンタル・アケルマンの母親の手紙の朗読がかぶる。
「私、あなた、彼、彼女」が「私」から徐々に人間関係を広げていったのに対して、母親という「私」以前からある存在にまで遡っているというべきか。

ニューヨークの街がすごく荒廃しているのでいつの風景かと思ったら、製作は1976年。「タクシードライバー」と同じ頃。




「沖田総司」

2024年02月12日 | 映画
50年前の1974年の製作で草刈正雄がいかにも若いのだけれど、変な言い方になるが現在の年をくった面影がある。

土方歳三の高橋幸治、近藤勇の米倉斉加年はともかく、永倉新八が西田敏行というのは本格的に人気が出たテレビの「三男三女婿一匹」が76年だからその前の出演ということになる。マンガチックに折れ曲がった刀を持ったアップなどなんとか目立とうとしているみたい。

真野響子がきれいで、草刈と美男美女のカップル誕生かと思うとズタズタに切り刻まれてしまう。
新選組を取り上げているのだから当然とはいえ、結構血なまぐさい。

草刈がやると肺病病みの美男子の陰の部分があまり出ない。良くも悪くもと言いたいけれど、良い方の資質ではないか。

天然理心流の遣い手としての腕を見せるところでチャンバラを見せるけれど、やや型通り。



「ストップ・メイキング・センス」

2024年02月11日 | 映画
まずデヴィッド・バーンだけが登場して歌い出し、ティナ・ウェイマスが続き、黒衣のようなシンプルな黒スーツ姿のスタッフがドラムセットを乗せた台を運んできて、以下人数が増えていくが、きちんと順序立てられ整理されたミニマムな作り方。
観客をほとんどお終いまで写さないところなどもそう。

ミニマムというのは「アメリカン・ユートピア」もそうだったが、あそこでラストで舞台の外に広がっていくのは対照的。

後半のスライドをマルチスクリーンに投影した背景は現代美術的なセンス。
電気スタンド相手に歌いかけ踊るシーンは、ちょっとフレッドアステアの「恋愛準決勝戦」の帽子かけ相手のダンスみたい。

ラスト近く、壁に映ったシルエットだけでデヴィッド・バーンだとわかるのが可笑しい。





「罪と悪」

2024年02月10日 | 映画
少年たちが体験したトラウマものの体験と、その22年後に犯罪が再現されるという設定は「ミスティック・リバー」ばり。
少年のひとりが刑事(椎名桔平)になっているところもそう。

犯罪絡みの内容にも関わらず福井県がかなり協力しているらしい、監督脚本の齋藤勇起が福井出身なのは大きいのではないか。登場人物の土地に対する愛憎こもごもの感情がかなり濃厚にこもっている。

案外おどろおどろしい雰囲気は薄くてなんだか悲しい印象が強い。




「ダム・マネー ウォール街を狙え!」

2024年02月09日 | 映画
ここでもセリフでちらっと触れられるが、「ウォール街を占拠せよ」Occupy Wall Streetと1%以下の金持ちがそれ以外の貧乏人(というより地盤沈下した中産階級)そっちのけに株価を操作し利益を貪っているマネーゲームに抗議する運動が起きて、いわばその抗議の実践版の映画化。

1%以下の金持ちがボロ(と見なされた)株の空売りを仕掛けて、SNSでゆるくつながった貧乏人たちが対抗して買い進めるというのが全体の構図。
売るものがないのに空売りするというのがすでに変なので、後で買い戻すといっても具体的なモノがあるわけではなく、数字だけが動く。
金持ちにとってはただのバカでかい数字であっても、貧乏人にとっては食費であり教育費であり医療費でありガソリン代であり光熱費であり、つまりは具体的な生活の裏打ちがある。

登場人物それぞれに現在の資産額が字幕で示されるのだが、金持ちは何十億ドル(ビリオネアね)を占有しているのに対して、貧乏人はひどい時は三ケタ。
あまりにひどい格差で、それだけの資産で何やるのかというとパーティーだったり遊興費だったり次の投資だったりで、カネがカネを産むと言うと聞こえはいいが、同じところ(日本でいう上級国民の中)をぐるぐる回っているだけではないかと思う。

とはいえSNS自体が大きく見れば資本主義的構造の申し子みたいで主人公がやっていることはYouTuberのフォロワー稼ぎで、それがたまたまバカ当たりしてインフルエンサーになったという面もある。
マネーゲームが大衆化していて好むと好まざるに関わらず参加しないわけにいかない(NISAのしつこい勧誘に見るように日本もそうなってきている)背景がある。

それらをひっくるめて全体の見取り図がしっかりしていて、しかも現在進行形なのがわかりやすくてスリリング。
主役のポール・ダノをはじめキャスティングがよく、父親役がクランシー・ブラウン(「ハイランダー 悪魔の戦士」の悪役)だったりする。

ダノが奥さんも小さな子供もいるという設定が中産階級的。
ラストで「その他大勢」がそれなりに資産を増やして余裕ができたのを見せる。

金持ちの贅沢の中に和牛Wagyu(はっきりワギュウと発音している)というのがあるのにあれまと思う一方で当然とも思う。





「私、あなた、彼、彼女」

2024年02月08日 | 映画
ヒロイン(監督のシャンタル・アケルマン自身)のストップモーションの連続から始まる。
やがてベッド代わりのマットレスでごろごろ寝転がって、書いた手紙を床に並べ紙袋に入った砂糖をスプーンで掬って食べたりとえんえんととりとめなくだらしのない姿を見せる。

上映時間で30分を過ぎたあたりから外に出る。
トラック運転手の男と並んで黙って食事する間ずうっとテレビの音がオフで聞こえてくる。
もう少しあとで男と相対して座る。背景に水槽が見える。
明らかに運転したまま性器をしごかせているのだがヒロインの姿はオフになっている。

このあと出てくる女とはあからさまな性交描写が出てくる。通して見ると、最初は一人きりだったのが次第に他者との関わっていく。通常だったらドラマが始まるところでぷつっと終わるという構造になっている。

ひとりきりから始まり、ふたりいるだけという関係から、他者と相対するに至る、徐々に人間関係が積み上がっていく展開。

白黒、スタンダードサイズ。





「ザ・ガーディアン 守護者」

2024年02月07日 | 映画
ヤクザが親分のために敵に殴り込みをかけて懲役に行き、その間に愛人が女の子を産んでというお話は日本のヤクザ映画にもありそうだけれど、全体にずいぶんスマートになって泥臭くない。
留守にしている間にボスがずいぶん出世していて、誘いを断って足を洗うのはいいが、洗った後どうするのかよくわからない。

下っ端の敵ばかり相手にしていて大物がすっぽ抜けているのはどうかと思う。ヤクザ映画だったらラスボスにこそ殴り込みをかけるところではないか。

愛人(これまたスマート過ぎるが)が早く死に、残された幼い女の子を元ヤクザが守るというのが邦題の由来だろうけれど、この女の子に対する態度が自分の素性を明かすでもなく明かせないのを苦しむでもなくで、なんだか曖昧。

ノリで犯罪を犯罪とも思わないで行うような軽薄なカップルが敵にまわるのだが、男の方はモデルガンみたいな銃をやたら乱射して、女の方は爆発物をいじる。
なんだか素人くさい(特に男)のと、元ヤクザの方でむやみと暴れるかと思うと隙だらけになったりと、どうにもやることにムラが目立つ。

良くも悪くも型にはまったものになりそうで、型から外して失敗に転ぶというのも珍しい。





「グロリアス 世界を動かした女たち」

2024年02月06日 | 映画
アリシア・ヴィキャンデルとジュリアン・ムーアが同じフェミニストのグロリア・スタイネム役の青年期と壮年期を二人一役で演じるわけだけれど、顔の作りが似ているわりに1988年生と1960生の28歳差がさほど目立たず、「欲望のあいまいな対象」ばりにキャラクターの二面性を表現したのかと思うくらい。
実際おそらくそういう意図はあったのではないかと思われ、つまりミスとミセスを未婚か既婚かで分けるのを否定し男のミスターに相当するミズを使うよう提案したのが実在のグロリアというわけ。

ミズなんて称号?認められるかとニクソンが揶揄するところで時代がわかる。60年代から70年代にかけてで、そんなに前から言っていたのかと思う。なおグロリア・スタイネムは存命中(1934生)。

時制がかなり複雑に交錯し、同じバスの中の別の席に二人の女優が座っていたりカットが変わると入れ替わったりとさまざまな演劇的な技法を使っているのだが、ややとってつけたようで座りが悪いし、いかになんでも二時間半は長い。

監督のジュリー・テイモアは舞台の「ライオン・キング」映画では「タイタス」「テンペスト」で知られる。





「哀れなるものたち」

2024年02月05日 | 映画
室内シーンで広角レンズをはめこんだドアの覗き穴(和製英語だとドアスコープ、英語でpeephole)から見たみたいに撮られた丸く切り抜かれたショットがあちこちにはさまるのだが、実際にはドアも覗き穴もないのだし、どういう狙いだろうと首をひねった。

後の方のパリのシーンではこの覗き的あるいは顕微鏡的アングルの頻度がかなり減る。ヒロインの一種の主観(ヒロインも写っているのだが)として視野狭窄になっている状態を表現しているのかいなと思ったりした。

空の色を含めて明らかに作りものっぽい美術にヒロインが人造人間(それを作ったウィレム・デフォー自身がフランケンシュタインばりに顔中縫い目だらけなのだが)というのが徹底している。

ヒロインが何の脳を移植されたのかかなり後まで伏せている。これもある意味それこそ白紙で見るためだろう。
意識がイノセントなのがほとんど即非常識になるのが肉体は成熟していると相対してかなりグロテスク。





渋谷PARCOほかの展示より。










「ランジェ公爵夫人」

2024年02月04日 | 映画
今はなき岩波ホールでの公開だったのだね。
ギョーム・ドパルデューの父親ゆずりの巨体が豪華な割にがらんとした室内で大きな足音をたてて歩き回る。びっこをひいているのだが、95年には実際にバイク事故で重傷を負い、手術の際の院内感染が原因で長年ひざの痛みと戦ったあげく、03年に右脚の切断を余儀なくされたからだという。この映画はその後の07年の製作(翌08年に37歳で急逝)。

サイレント映画を思わせる字幕の簡素な潔癖さ。
まず読む文字として現れる、バルザック文学に忠実な(というのか)表現。

初めは気位高く構えていたランジェ公爵夫人が無骨な軍人モンリボー将軍と立場が逆転するすれ違いドラマなのだが、文字でつなぐことでいかにもなドラマチックなメリハリはあえてつけないでいる。
マキノ光雄の言葉を借りると、ドラマがあってチックがない。




「幻滅」

2024年02月03日 | 映画
貴族と平民の間に生まれた主人公がイノセントな純文学志向だったのがペンで人を持ち上げたと思うと引きずり下ろすのを生業とするようになり、気づくとあちこちのしがらみで借金で首がまわらなくなっている。
華やかな生活にも全部カネがかかっているというわけ。

19世紀のコスチューム・プレイの世界だから、今で言うメディアを牛耳っている連中のえげつなさがカリカチュアと見せてリアルに描けている。
今だったらSNSの世界になるから画にするのが難しいだろう。

いわゆる犯罪大通りで赤い靴下を履いて踊っていた出会った時まだ十代の歳の離れた妻が、借用書につぎつぎとサインする情景は「バリー・リンドン」を思わせる。
美術が素晴らしく、ロウソクの照明のニュアンスが良く出た。

小林信彦はバルザックについて、昭和初期のビルを歩いていたら最新のビルに紛れ込んでしまったような感じ、バルザックの強みは政治と経済に強いことと形容していたが本当に今に通じるのだろう。





「サイレントラブ」

2024年02月02日 | 映画
あららチャップリンの「街の灯」じゃない。

浜辺美波は音楽大学在学中で交通事故で視力を失い耳が頼りだが、それに対して山田涼介は口がきけない。
音大に通うくらいだから浜辺は裕福な生まれ育ちで、不良出身で掃除夫をしている山田とは、劇中のセリフにもあるが住む世界が違う。
これにグレているけれどピアノの名手の野村周平が絡む。

浜辺が目が見えないので野村を山田と誤解するところや、手を握ったり触ったりする動作の強調などアレンジしてはいるけど、ほぼそのまま。

山田が無言というのがサイレント映画の「街の灯」を今に生かしたと思しく、浜辺と野村がピアノを連弾演奏する場面がまたトーキーの特性を今さらながら生かした。
だいたいこの映画、台詞がかなり少なく緊張感を維持している。

貧困のあり方というのがチャップリンとは違いすぎるが、格差という形でリアル寄りにしている。

余談だけれど、野村周平はちょっとチョウ・ユンファに似てるなあと思った。ユンファは日本に紹介された当時は小林旭に似てると言われたものだが、では野村がアキラに似てるかというと全然そんなことない。
そういえばユンファには「狼 男たちの挽歌最終章」という誤って女性を失明させてしまい償おうとする主演作があった。

大学の教師が盗聴していて逮捕されるというテレビニュースが食堂に流れるシーンが終盤にとってつけたようにあるけれど、あれ必要か?





「ノスタルジア」4K

2024年02月01日 | 映画
4Kレストア版とあって画質に注目したが、それ以上に音それも小さな音に耳を傾けた。
レストアに際しては撮影監督(ここではジュゼッペ・ランチ)の監修は受けるけれど、録音やミキシングの方はどうなのだろう。

ホテルの廊下でピアノの音がごく小さく聞こえた時は、気のせいかと思うくらい。
クライマックスの「第九」は対照的にかなりマチエールが荒く聞こえた。
「ストーカー」でも列車の音でわざと聞こえにくくして「タンホイザー」や「第九」を使っていたが、こういう音の処理はあまり例がない。

武満徹の、
「近ごろ人間の音に対する感性は、鈍ってきていて、とくに映画の場合、音が大きくなってきたということもあるんですけど、無神経になってきている。かならずしもドルビー・システムが悪いわけじゃないけどね。その無神経さと、タルコフスキーの感性は、対極にある」
という発言を思いだした。

上映中の場内に遠くからドルビーシステムと思しき響きが伝わってきたのが気になった。
Bunkamuraル・シネマの7Fで見たので同じ時間に上映していたのは9Fの「燈火(ネオン)は消えず」のはずだが、そんなに大きな音がする性格の映画だろうか。

テレビで見る(聴く)時も薄型が主流になっているせいかどうも響きが貧しい。サウンドバーを接続すると繊細な響きが潰れるし。

映像は最初に見た虎の門ホール(続けてシネヴィヴァン六本木)の印象と変わらない。
つまり作った直後のプリント状態を保っているということ。

おそろしくスローだがむらのない時間の流れはタルコフスキー自身の理論の実践(「刻印された時間」=Sculpting in Time)と思える。

見ている間、まったく雑念が湧かなかった。満たされていたと言うべきか。最近、珍しい。





2024年1月に読んだ本

2024年02月01日 | 
読んだ本の数:26
読んだページ数:4607
ナイス数:0

読了日:01月04日 著者:黒柳 徹子




読了日:01月07日 著者:ちばてつや




読了日:01月07日 著者:ちばてつや




読了日:01月07日 著者:ちばてつや




読了日:01月08日 著者:鈴木 敏夫




読了日:01月08日 著者:溝口 敦




読了日:01月08日 著者:ちばてつや




読了日:01月08日 著者:ちばてつや




読了日:01月08日 著者:ちばてつや




読了日:01月08日 著者:ちばてつや




読了日:01月08日 著者:ちばてつや




読了日:01月08日 著者:ちばてつや




読了日:01月08日 著者:ちばてつや




読了日:01月08日 著者:ちばてつや




読了日:01月11日 著者:フィリップ・K・ディック




読了日:01月11日 著者:ロバート・A. ハインライン




読了日:01月15日 著者:中村淳彦,鈴木大介




読了日:01月17日 著者:和山 やま




読了日:01月18日 著者:横田 増生




読了日:01月19日 著者:滝沢 秀一




読了日:01月20日 著者:児玉 真美




読了日:01月20日 著者:藤永 茂



読了日:01月21日 著者:森 達也



読了日:01月24日 著者:桜庭 一樹




読了日:01月25日 著者:西村 章



読了日:01月28日 著者:内田 樹,白井 聡