マドンナのナイショ話

あなたに話したいあれこれ

「おかあさん チョット・・・」の想い出 パート3

2006年05月11日 | あべの&天王寺
Okatyo0605113

「おかあさん チョット・・・」の想い出話もこれで最後です。
最後までこのお話を聞いてくれて嬉しいです。
今日はどうしてもお話しておきたい三つのことがあります。

私たちの想いがいっぱい詰まったミニコミ誌
「おかあさん チョット・・・」の誕生から
1年経ち、2年経ち、3年経つと地域の人たちは
この新聞を心待ちにしてくださるようになりました。
初めの頃は広告と間違われて、ポストに入れようとすると
「入れないでください」とお叱りを受けたこともありました。

けれど時が流れ、反響が大きくなるにつれて
お届けすると「今月も待っていたのよ」と
お庭から声を掛けてくださったり、嬉しい触れ合いでした。

Tv0605111

スタッフの知り合いが関西テレビの人と繋がりがあり
「番組に出演してくれる人を探している」
という話が舞い込みました。
大人30人と子供30人の生番組への出演依頼です。
子供の年齢は小学4年生から6年生が対象でした。

スタッフに一声かけると、その日のうちにメンバーが集まりました。

春休み真っ只中の1991年4月1日
私たちスタッフは子供を連れて関西テレビへ乗り込みました。

Tv0605112

その頃、関西テレビでは月曜日から金曜日のAM10時から
「Aタイム」というワイドショーが放送されていました。
そこで春休み特別企画として
「24時間戦う現代っ子・驚異の実態」というテーマで
インタビューしたり、質問をしてボタンで答えさせる
ぶっつけ本番の生番組に出演しました。

Tv0605113

さあ・・・♪
「おかあさん チョット・・・」のメンバーの
初めてのテレビ出演です。
右側が私たち母親、そして左側が子供たち合わせて60人です。

Tv0605114

テレビは1時間に渡って、色々な質問がなされ
大人も子供も「イエス」なら手持ちのスイッチでオンしました。
あとからビデオで観ると本当によく映っていました。
何だかドキドキの1時間だったけれど楽しかったです。
終わったあとみんなでランチしながら
いつまでもテレビ出演のことを話していました。

Tv0605115

そして今度は夏休み企画として
子供たちだけに生出演の依頼がありました。
7月27日子供たちは関西テレビ入りしました。
今度は「子供がノゾク大人の世界」というテーマでした。

内閣総理大臣の名前やアメリカの大統領の名前を
知っているかという質問や
新聞を読んでいるかとか、テレビのニュースを観ているかとか。
司会者は次々と子供たちに質問していきました。

Tv0605116

またリアルでショッキングな質問もされました。
今まで一度でも嘘をついたことがあるかとか
たばこを吸ったことがあるかとか
親の財布から10円でも盗ったことがあるかとか
今まで一度でも死にたいと思ったことがあるかとか
質問してスイッチで答えさせました。

ちなみに55人の子供の中で嘘ついたことのある子は55人。
全員が嘘をついたことがあると答えました。

当時のAタイムの司会者は妹尾和夫さんと大角香里さんでした。

このあとも関西テレビからの要望で
2~3回、親だけの参加がありました。
私は予定があったりして行けなかったけれどスタッフは参加して
いつもスタジオは「おかあさん チョット・・・」のメンバーで
あふれていました。
こうして私たちは関西テレビとも繋がりを持つことが出来ました。

Okatyo0605112

春のAタイムの出演と同じ頃
もうひとつワクワクする幸運が舞い込みました。
スタッフの一人が雑誌社に
私たちの活動のことをPRする手紙を書いて出していました。

その想いが叶って、今度は「おかあさん チョット・・・」のことを
「レタスクラブ」という雑誌が取り上げてくれるという話が来ました。
当時、レタスクラブは月2回の発行でした。

Okatyo0605111

早春の吉日、私たちは雑誌社の取材に応じて
公園の片隅で写真を撮ってもらいました。
左上がその時の写真です。

私たちはレタスクラブの「井戸端シンポジウム」というコーナーで紹介され
座談会をしてスタッフ7人で話を進めていき
その内容を編集の人がまとめて記事にしてくれました。

この写真には私もいるのですよ。
1991年6月10日号のレタスクラブです。
もう15年も前の雑誌です。

内容は協賛店確保の苦労話や
子供たちを連れて新聞を配っていた時もあったから
何度も辞めようと思ったこと。
けれど40人のスタッフは誰一人として辞めなかったこと。

スタッフの中にはキャリアウーマンもいるし、パートに出ている人もいる。
けれどこのチームワークの素晴らしさ。

あとはリサイクルの問題。
ビンや牛乳パックの回収がどんどん広がっていったこと。
学校や団体で回収を呼びかけてくれるように努力していること。

今では家族もこの新聞を応援してくれて
地域のたくさんの人たちやお店の人たちも応援してくれて
とても嬉しいと思っていること。

そんなことを話して、井戸端シンポジュウムは終わりました。

Okatyo0605114

1993年4月
阿倍野区制50周年記念式典に
阿倍野区出身の故逸見政孝さんが講師として招かれ
区民ホールで講演をされました。
「私の歩んできた道」という、彼の生前に至る人生を語ってくれました。

逸見さんは第1回目の胃癌の手術を1993年2月に受けています。
この区民ホールでの講演の時は経口抗がん剤を毎日服用中。

そして9月6日に記者会見を行い
「今私が侵されている病名は、癌です」と公表し
癌との闘いを宣言しました。
そして三度目の手術の甲斐も虚しく
逸見政孝さんはその年の12月25日に亡くなられました。

ふるさとに帰って来て、私たち区民の前で講演されて・・・
それが逸見さんが訪れた最後のふるさと「あべの」でした。
この講演を聴いた多くの人たちも
あの時の逸見さんの爽やかな笑顔を忘れることはないでしょう。

人気アナウンサーとして頂点の時に48歳の若さで亡くなられた逸見さん。
この講演の内容は「おかあさん チョット・・・」の第50号(6月号)に
私たちの「おかあさん チョット・・・」の最終号にまとめてあります。
想い入れの深い最終号となりました。

Aタイムのこと、レタスクラブのこと、逸見政孝さんのこと
これが最後に話したかった三つのことです。

「おかあさん チョット・・・」のトップページを飾る絵は
地域の子供たちが「私(僕)のお母さん」というタイトルで
描いてくれました。
トップページはいつも母を想う子供たちのほのぼのとした
「お母さんの似顔絵」で飾られていました。

Okatyo0605115

この写真の上の新聞の絵を描いてくれたのは
桑名正博さんの次男さんです。
当時3歳でした。
彼は今年大学生になったかしら?

下は1989年5月。創刊号を飾った絵です。
この絵を描いてくれた女の子は今春大学を卒業して
一流企業に就職しました。

創刊号から17年の歳月が流れました。
小さい子供の手を引いて、みんな手配りしてくれました。
犬にほえられたこともありました。
途中で雨に遭ったこともありました。
雨が降ると、自分は濡れても
「おかあさん チョット・・・」だけは濡らすまいと
抱きかかえて家まで走って帰りました。

夏の暑い日「暑かろう・・」と
冷えた缶ジュースを1本くれたおばあさんがいました。
「ご苦労さま」と声を掛けてくれる人が増えていきました。
手配りすることに、はっきりとした手応えが感じられるようになりました。

子育て真っ只中の時代。
私たち40人は小さな子供を抱えて「第二の青春時代」を謳歌しました。
この4年間のことは生涯忘れられない想い出です。

Okatyo0605116

3日間「マドンナのナイショ話」を聞いてくださって
ありがとうございました。
下の詩は最終号のトップページを飾ったものです。
サトウハチローさんの詩です。


この世で一番美しい名前  それはおかあさん
この世で一番やさしい心   それはおかあさん


私にも年老いた母がいます。
だからこの詩は心に沁みてきます。
次の日曜日は「母の日」です。
お母さんに心から「ありがとう」を言いたいですね。

Tv0605117

Tv0605118

Tv0605119

Tv06051110

Tv06051112






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする