文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

書評の書き方(初級編2)

2016-02-08 18:51:48 | 書評の書き方
 書評とはなんだろう。これは前回の記事にも書いたように、「書を評する」ということが基本になるが、これだけでは曖昧模糊としているのではないか。書評に近いものとして感想文があるが、それでは書評と感想文はどこが違うのだろう。

 これも人によって定義は様々である。要するに、きちんとした境界線などはありはしないのだ。ネットで調べてみると、書評は客観的で感想文は主観的なものだというものが結構多かったような気がする。しかし、考えてみればわかるように、書を評価する場合には必ず読者の価値判断が入ってしまう。自然科学系の論文を書くのとは異なり、書評には、主観が入らないものなんて存在しない。

 しかし、書評と感想文は、一つだけ違うところはある。書評とは、著者と対等の立場で本と向き合ってその本の価値判断をする。だからいい本はそのように評価するし、そうでない本はそれなりの評価となる。しかしそれはあくまで評者の価値観からくるもので、人によっては180度違った評価が下されることもある。これは、文学に限らず芸術作品が、作者の生前は全く評価されなかったが、死後ものすごく高く評価されるようになった例がいくらでもあることから理解できることと思う。これに対して感想文は、作者よりの姿勢で、共感を示しているようなものが多い。ただ、感想文のようなものでも、面白かった理由がどこにあったのかはっきりしていれば、それは一種の書評と言えないこともない。このように書評と感想文の間にきちんとした境界を引くのはむつかしいのだ。

 もっとも、単にミーハー的にキャーキャー騒いでいるような感想文だと、さすがに書評とは区分されるものであると言わざるを得ない。価値判断を下すにはそれなりの理由が必要なのだ。


○関係過去記事
書評の書き方(初級編1)

 
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書評の書き方(初級編1)

2016-01-07 12:12:33 | 書評の書き方

 私は、このブログの姉妹ブログとして、書評専門の「風竜胆の書評」というブログを運営している。最近はあちらのブログのバックアップを兼ねて、このブログにも書評記事を掲載しているが、まだあちらの方には、過去からの記事が大量に眠っているので、興味のある方は読んでみて欲しい。

 さて、書評の書き方であるが、まず「書評」とは何ぞやというところから始める必要があるだろう。このあたりの定義は、人によって違うだろうが、私は以前「書評というものについての私見」という記事に書いたように、「書を評する」ことが基本となると思う。

 いったいその本はどのような本なのか。役に立つ本なのか、人生の道しるべとなるような本なのか、社会の不条理を鋭く抉るような本なのか。それともまったくのクソ本なのか。このような評価をきちんとした根拠ととともに理路整然と示すことが書評の第一歩となるだろう。

 ただこれをあまりにもきっちりとやってしまうと、小論文になってしまう。書評には文芸という性格もあるのだ。あまりにも論文調になってしまうと、読んでいて面白くない。読んで面白いというのも、書評としての重要な要素だろう。

 要するに、書評とは論文と文芸の二つの性格の違うものをいかに融合させるかということなのだ。私自身まだまだ試行錯誤の状態で研鑽を積んでいるの状況だが、まずこのことは抑えておきたいと思っている。


○関連過去記事
書評というものについての私見



 

 

 
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書評というものについての私見

2011-08-16 19:11:52 | 書評の書き方
 私は、別ブログ「風竜胆の書評」の方に書評を掲載している。もう5~6年は続けているはずだが、なかなか難しいもので、いつまでたっても上達したような気がしない。しかし、最近色々と思うところもあったので、私なりの考えを整理してみたいと思う。もちろん、こんなものは人によっても千差万別であるし、私自身の考え方にしても、時と共に変わっていく可能性だってある。

 まず書評とは何かということだ。端的言えば、その字面が示している通り「書」を「評」することだと思う。つまりは、書を評価、批評するということだ。「書評」という文字を使って、それ以外の定義はありえない。一応辞書で調べてみると、「書物について、その内容を紹介・批評した文章」(デジタル大辞泉)とほぼ同様のことが書かれている。この評価や批評があるというところが、いわゆる感想文と書評を区別するものだと思う。

 しかし、ここにひとつの難しさがある。評価するためには、その論拠を本の中からひっぱってこなければならない。単に「面白かった」とか「良かった」だけでは評価とは言えない。案外と、ネット書評には、このレベルのものが多い。しかし、それを理路整然とやろうとすると、特にミステリーの分野では「ネタばれ」と言われてしまう。もちろん、犯人をばらすなんというのはとんでもない話なので、書評をする場合には、論理性と内容の紹介とのバランスをどうとるかということが非常に難しくなってしまう。これをやたら細かいことまで気にする人がいるが、そうゆう人の基準にあわせてしまうと、すべてがネタばれになってしまいかねない。どこからがネタばれかは、それぞれの良識で判断すべき問題だろう。

 上の議論では、一応書評と感想を区別したが、実はこの境界も案外と曖昧であり、ここに2つめの難しさがある。ただ私は、小説などは、ある程度は感想文に近くても良いのではないかと思っている。なぜなら、小説などの場合は、感性に訴える部分が多く、どうしても主観的に成らざるを得ないからだ。しかし、論理性が要求される学術書やビジネス書については、きちんと論拠を示したロジカルな評価を行うべきであると考えている。

 しかし、更に3つ目の難しさがある。書評は学術論文ではないので、単に評価するだけでなく、読者が読んで面白いと思ってもらわなくてはいけないということだ。そのためには、論理性を犠牲にして、多少トリッキーな表現をする場合もあるだろう。この加減もなかなか難しい。たまに、ビジネス書等の書評に、定型的なフォームを埋めているだけのようなものを見かけるが、私から言えば論外のものだ。また、「読んだけど、結局難しくてよく分からなかった」というようなものも見かけることがあるが、これはもう書評以前のものだ。

 書評とは、一部に見られるように、著者をただ崇め奉るものではなく、著者との知的な対話をするものだと思う。その対話の中には議論ももちろん含まれるのだ。そうは言っても、私自身まだまだ満足にそれができているとはとても言い難い。これからも一層の研鑽あるのみか。それにしても、本の紹介に簡単な感想を書いただけの書評って多いと思う。きちんとした書評の書ける人は、私が書いていた書評サイトでも、それほど多くなかった。しかし、井戸端会議のような感想で、私などには受け入れ難いようなものが、意外に人気があるのは、この国の現状というものだろうか。

(追記)
 書評とは、基本的には、序、本論、結論からなるものだろう。つまりは、その本が、どのようなものであるかを、根拠を挙げて論じるものだ。感想を書いたり、長々とつまらないことを述べるようなものではない。もちろん、各段階においては、いろいろなバリエーションができてくるのだが。これが「起承転結」の構成になっているとすれば、それは「書評」ではなく、本を題材にしたエッセイと呼んだ方が良いのだろう。


※H25.11.25 一部修正:多少の修分
※H27.10.31 一部修正:私の書評専門ブログのタイトル変更に伴う修正および多少の修文
※H27.11.25 (追記)記載。


○姉妹ブログ
時空の流離人 
本の宇宙

コメント (6)
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