・J.D.サリンジャー、(訳)野崎孝、井上謙治
本書は、グラース家の7人兄妹を描いた、グラース・サーガとも呼ばれる一連の物語のうちの2作を収録したものだ。両作品とも、兄弟姉妹の中で上から2番目となるバディを語り手にしている。全体に、コミカルだが、かなりシニカルな語り口で話がすすんでいく。
まず
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」の方だが、これはグラース家の長男であるシーモアの結婚式の時の話だ。家族それぞれの事情から式に行けるのはバディだけ。肋膜炎の病み上がりで、横隔膜の辺りを絆創膏でがんじがらめにされての出席である。
彼は、ひょんなことから、花嫁側の関係者と同じ車に乗りこむのだが、花嫁の介添役の婦人から、さんざんシーモアの悪口を聞かされる。もっともシーモアの方にも悪口を言われてもしかたのない部分もかなりあるのだが。パレードによる渋滞で車が動かなくなり、皆でバディとシーモアのアパート(二人が軍隊に入ったので、実際に住んでいるのは妹のブーブーだが)に行くことになる。そんなドタバタを描いたものだが、ここに出てくるのは、まさに俗物とでもいうような人々ばかり。
このタイトルの由来は、ブーブーが浴室に残した次のメッセージである。
<大工よ、屋根の梁を高く上げよ。アレスさながらに、丈高き男の子にまさりて高き花婿きたる。(以下略)>(p89)
これを読んで、シーモアはどれだけ背が高いんだと思ったが、次の「シーモア序章」でバディが述べているところによれば、彼の身長は、5フィート10インチ半。当時のアメリカの基準では、背の低い男の中では高い方に属しているらしい。
そして「シーモア―序章―」だが、これは40歳になったバディが書いたシーモアの思い出話のようなものだ。シーモアは31歳で自殺をしている。この作品は、ひたすらシーモアを礼賛するような内容だろう。
一神教の国では、シーモアは神にはなれないが、シーモアもバディも中国や日本にものすごく興味を持っていたようだ。本書のそこかしこに、道教の話や俳句の話がちりばめられているのである。だからこれは、あたかもバディがシーモアという神に捧げる祝詞のようなものだと思えば、当たらずと言えども遠からずか。
シーモアは、兄弟姉妹が優秀なグラース家の中でも飛び抜けた天才のようだ。何しろ15歳でコロンビア大学に入り、18歳から大学で教えていたらしい。しかし天才だからだろうか、彼には病的な危うさがある。
例えば彼は、子供の頃シャーロットという美少女に9針も縫うような大けがをさせているが、その理由は、「ブーブーの猫を撫でていた姿が美しかった」からだという。完全にアブナイやつだ。
また、シーモアの日記に書かれていた、結婚相手のミュリエル評もすごい。
<事物を貫いて流れている、万物を貫いて流れている太い詩の本流。これに対する理解力をも愛好心をも、生涯ついに恵まれることのなかった人間。むしろ死んだほうがましかもしれないが、それでも彼女は生き続けていく>(p98)
よくこれで、ミュリエルと結婚しようなどと思ったものだが、そこが天才の天才たるゆえんか。しかしこれでは、俗物だらけの世の中、生きにくいだろうなあ。
「大工よ」の方はまだいいが、「シーモア」となると、うだうだと回りくどい文章が続くので、文学読みの人たち以外は、この本を途中で壁に叩きつけるかもしれない。私は文学読みではないので、しばしばそんな誘惑に襲われたのだが、それに耐えながらも、一応最後まで読んだ。そんな私を誉めてやりたい。偉いぞ、自分!
なおひとつ気になった部分がある。「禅宗のある修道院」(p65)という表現が出てくるが、もちろん仏教宗派たる禅宗に修道院なんてものはない。原文は、どうだったのだらろう。原文がどうあれ、日本語に訳すなら、ここは「寺院」としたいところなのだが。