文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

書評:「いい会社」のよきリーダーが大切にしている7つのこと

2017-11-29 09:18:02 | 書評:ビジネス
「いい会社」のよきリーダーが大切にしている7つのこと
クリエーター情報なし
内外出版社


・瀬戸川礼子

 勤めていると、よくリーダーシップ何たらということを聞くのではないか。会社員は誰でも、リーダーシップというものを求められるらしい。

 ところが、このリーダーという言葉は結構曖昧で、上は経営者から、下はバイトリーダーまで、様々な階層で使われているのではないだろうか。へそ曲がりな私などは、そんなにリーダーをつくってどうするんだろうと思わないでもないのだが、本書で想定しているリーダーとはどちらかというと経営者に近い人たちのことのようだ。

 もちろん、それぞれの階層でリーダーはいるのだろうが、いくら末端で頑張ったからと言って、それで「いい会社」になったりはしない。やはり、経営層、トップ層の影響というのは大きいのではないかと思う。しかし、誰もが認める素晴らしいリーダーが上に来るとは限らないというのが世の常。バカが上に来るほど悲惨なことはないのだが、ドラマなどではそんな例が掃いて捨てるほど出てくるではないか。そういったものを反面教師として人事権を持っている人間がもっと考えてくれればいいのだが、現実にもそんな例はいやになるくらい多いのではないかと思う。

 本書では、「いい会社」のリーダーたちは、何を大事にしているかを、具体的な例を挙げながら示している。それは例えば「心」だったり「順番」だったり。しかし一つ指摘しておきたいのは、これらは相関関係であり、因果関係ではないということだ。いい会社のリーダーはこれらを大切にしているといっても、逆にこれらを大切にしたからと言って、必ずしも「いい会社」になるとは限らないことは注意しておかなければならないと思う。

 また、個別に見ると、どうかなと思うようなことも書いてある。いい会社の取り組み例(p229)として、毎朝1時間かけて社内外を掃除したり、毎日朝礼を1時間といったようなことが載っているのだ。私なら、それだけでそんな会社に入ろうとは思わない。その分の給料はちゃんと出ているのだろうかちょっと気になった。また、日時設定にしても、毎日午前7~8時に設定しているのを褒めていたが(p228)、いくらなんでも早すぎないか。朝が苦手な私など、絶対にそんな会社が「いい会社」なんて思わないだろう。

☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。

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書評:哀しみの終着駅―怪異名所巡り〈3〉

2017-11-27 11:04:34 | 書評:小説(ミステリー・ホラー)
哀しみの終着駅―怪異名所巡り〈3〉 (集英社文庫)
クリエーター情報なし
集英社

・赤川次郎

 主人公は町田藍というバスガイド。元々は業界最大手の「Hバス」に勤めていたのだが、リストラにあい、現在は最弱小の「すずめバス」のガイドをしている。しかし、彼女には幽霊が見えて話せるという一風変わった特技があった。その能力を活かした「幽霊ツアー」が、大人気という設定である。

 タイトルを見ると、〈3〉という数字が入っているので、これもシリーズ化されているのかとちょっと調べてみた。するとつい最近新書版で9巻目が出ており、かって「霊感バスガイド事件簿」というタイトルでテレ朝系列のドラマ化もされているようである。ちなみに、主演は菊川玲。

 収められているのは以下の5つの短編。

・忠犬ナナの伝説
・哀しみの終着駅
・凡人の恨み
・地獄へご案内
・元・偉人の生涯

 幽霊は出てくるのだが、どれも恐怖で背筋がぞくぞくしてくるような話ではない。むしろその幽霊話に関連して、人間の哀しさ怖さといったものが描かれている気がする。

 ただ「地獄へのご案内」での設定はちょっとヘンかな。定年間際の田舎町の警察署長がK国大統領の先導をしていた時に道を間違えて、自殺してしまった話だ。よく白バイ隊員が駅伝などの先導している場面をテレビで目にするが、その階級は巡査か巡査部長クラスである。しかし警察署長になると最低でも警視クラスだ。いくら県警本部長が引退の花道を飾らせたいからといっても、署長自ら、白バイを運転して大統領の車を先導するなんてまずありえないのではないかと思う。また、道を間違えた原因だが、もしそんなことになっているんなら、警官が絶対に白バイ運転しちゃだめでしょとツッコミたくなるようなものだった。

 ともあれ、赤川次郎は著作が沢山ありすぎて、これまで「セーラー服と機関銃」のシリーズと大林宣彦監督による映画の「新尾道三部作」の原作である「ふたり」、「午前0時の忘れもの」(映画タイトルは「あした」)くらいしか読んでないが、もっと他にも読んでみたいなと思ったのは確かだ。 


☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。
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書評:定年バカ

2017-11-25 09:35:30 | 書評:その他
定年バカ (SB新書)
クリエーター情報なし
SBクリエイティブ

・勢古浩爾

 世の中には、定年後の生き方についての本が溢れている。そのどれもが、定年後こそ、これまでやれなかったことをやるチャンスだといった論調で書かれているのではないだろうか。曰く、定年後こそ地域デビューのチャンス。曰く定年後こそ何か勉強をすべき等々。そんな本を読んで、よし自分もと思ったのはよいが、どうもうまくいかずに焦っている人はいないだろうか。

 本書は、そんな本を、次から次に、ばっさばっさとめった切りにする。そのツッコミ具合がシニカルでなんとも面白いのだ。本書が訴えていることは、やりたい人間はやればいいが、やりたくない人間は別にやらなくてもいいんじゃないかということに尽きる。定年後に何かやらなけりゃならないと思い込むのは、それこそ病気ではないか。

 例えば本書には、とある市民講座の例が出ている。定年退職者のための講座だが、その講師が30歳という大学の助教。人生経験豊富な定年退職者が、「定年」をテーマに、よく30歳の若造の話などを聴きたいと思うものだ。受講する方もする方だが、講師を引き受ける方も引き受けるほうで、かなり皮肉な口調で書かれているのだが、私ならまず聴きに行こうなんて思わないだろう。

 定年退職者は、これまで長い間、会社という枠に嵌められてきたのだ。我慢してきたことも沢山あったろう。定年後こそその枠を取り払い自由に生きればいいじゃないだろうか。定年後、何かしなくちゃと脅迫観念に囚われているような人は一読すれば、心がすっきりするのではないかと思う。

☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。


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書評:正しい本の読み方

2017-11-23 11:39:50 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
正しい本の読み方 (講談社現代新書)
クリエーター情報なし
講談社

・橋爪大三郎

 昔からたくさんの本を読んできたが、こういったタイトルの本を見つけるとつい手を出してしまう。読んでみると、賛成できる部分と、ちょっと自分とは違うなというところがあるのはいつものことだ。

 本書に書かれているのは、本の選び方、本の読み方など。まずどういった本を選ぶかについてだが、本はネットワークを作っているので、その構造が分かれば、読むべき本、読まなくても良い本が分かるという。しかし、これは本を読むことを商売にしているいわゆる学者とか研究者と呼ばれる人の読み方だろう。私のように、興味の向くままに、あらゆる分野の本に手を出している者にとっては、本の作っているネットワークなんて全然興味がない。

 本の読み方だが、印をつけたり線を引いたり、書き込みをしたりといったようなアクションを行いながら読むことを勧めている。著者が故小室直樹氏の本を借りた時、その本は色々な色で塗りつぶされて総天然色になっていたという。私も同じようにマーカーで色を塗ったり、付箋を貼ったり書き込みをしたりといったアクションをしながら読んでいるのだが、確かにただ読むだけの時よりは、内容が頭に入りやすくなるような気がする。また、著者は、あんまり腹が立った時には欄外に「アホ」と書いたりするとのことだが、実は私も似たようなことを・・・(笑)。

 ところで、本書には特別付録として「必ず読むべき「大著者一〇〇人」リスト」というのが付いているのだが、人文・社会系に偏っているので、これについては大いに異論がある。例えばアインシュタインの「相対性理論」などは岩波から出ているのだが、リストには入っていないのである(もっともあれは必ずしも読みやすくないので、通常の相対性理論の教科書を読んだ方がいいかもしれない)。

 もうひとつ気に食わないのが、どうもマルクスに対して好意的な印象を受けるところだ。ただ、マルクスが資本論を書くにあたってのモデル構築で、どのような考えで書き、何を捨てたかということが書かれているので、それがそのままマルクスなんて読まなくてもいい理由になっていると思えるのはある意味皮肉か。人文社会系の人間には、未だに未練がましく、マルクスに対して一定の評価をしている人が多い(かっての学生運動の残り火?)ようだが、私は理工系なので、まったく評価してない。むしろ世界の現実をみれば、害毒しかたれ流していない気がする。

 笑ったのは、入門書の効用を謳ったところ。講談社現代新書には入門書がごっそり入っているというので、高校生や大学生の本棚には、講談社現代新書がずらっと並んでいなければならないと書いてあったところだ。ちょっと出版社に対するリップサービスが過ぎる?まあ、最近は学生が本を読まなくなっているので、そういった本棚が増えるのは悪いことではないだろうが。

☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。
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書評:プロジェクションマッピング

2017-11-21 11:14:25 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
プロジェクションマッピング
クリエーター情報なし
市井社

・三葉かなえ

 本書は、著者による五行歌を集めた詩集である。五行歌とは、本書の巻末に「五行歌五則」としてどのようなものか纏められている。もっと詳しいことが知りたければ、本書を読んで見るなり、ググってみれば「五行歌五則」の具体的な内容が分かるだろうが、端的に言えば、五行で表した詩のことである。

 本書は、表題の「プロジェクションマッピング」と各章題の「吐息の膜」、「秋の鱗」、「雲の額縁」、「深緑の氷山」、「星の精」、「生きている証」、「破壊と誕生」のいずれもが、収められている五行歌の一節から取られている。

 確かに、ひとつひとつの歌を見れば、著者の瑞々しい感性が感じられるような気がする。しかし、それを詩集に纏めるとなると、各章にそれなりのテーマというか纏まりが必要になってくるのではないか。

 そういった観点からこの詩集を見てみれば、例えば、第一章の「吐息の膜」はあまり順調ではない恋の苦しさ、第六章の「生きている証」には、生きることの辛さ悲しさといったものが感じられるので、そういった意味で纏まりがあると言えるだろう。

 しかし第二章の「秋の鱗」に収められている歌は、春夏秋冬すべてのものが入っている。それをなぜ「秋」で代表させるのだろう。また、第四章の「深緑の氷山」は、故郷の思い出を歌ったものが多いと思うが、それがなぜ抹茶かき氷で代表されるのだろう。感性の違いということかもしれないが、私にはよく分からない。

 また、私なら、別の章に入れるといったような歌もみられる。単なる好みの問題かもしれないが、その辺りの工夫も望まれる気がする。

☆☆☆

※初出は、「本が好き!」です。


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放送大学通信指導(危機の心理学)提出

2017-11-20 11:43:08 | 放送大学関係
危機の心理学 (放送大学教材)
クリエーター情報なし
放送大学教育振興会


 先ほど、Webにより、放送大学に「危機の心理学」の通信指導を提出した。これで、15日に提出した「錯覚の科学」と併せて、今学期履修している2科目はいずれも提出が終わった。後は、試験を受けて単位をゲットするだけ。でも、いつもの通りあまり勉強が進んでないんだよなあ。今月中にどちらのテキストにも一通り目を通したいのだが。
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書評:終電ちゃん(1)

2017-11-19 10:26:52 | 書評:その他
終電ちゃん(1) (モーニングコミックス)
クリエーター情報なし
講談社

・藤本正二

 たまたま見つけた、ちょっと変わった漫画だ。なにしろ、主人公が終電を擬人化した「終電ちゃん」という存在。いや、電車を離れても、かなり広い範囲で行動してるから、終電の妖精か。終電の走行時は、屋根に陣取り、就寝も同じように屋根の上。終電に乗り込む乗客をさばきながらも、もっと早い電車で帰れと叱る。

 「終電ちゃん」は、日本各地の終電に存在するようだが、この巻では、主に、中央線の「終電ちゃん」と、終電に伴ういくつかのエピソードを描いている。描かれるのは、人間ドラマや電車の接続に関する苦労。それがなかなかに泣かせるのだ。

 他にこの巻では、山手線の「終電ちゃん」、小田急小田原線の「終電ちゃん」も登場。それぞれ個性も違うが、みな可愛らしい少女の姿をしており、自分の持ち場でがんばっている。

 基本的には「終電ちゃん」は人気者なのだが、人間とは勝手なもので、電車が遅れた時などには、非難の対象となる。それでも「終電ちゃん」は乗客のことを思い、その時折で最善の行動を取ろうとするのだ。

 さあ、みんな「終電ちゃん」に会いたくなったら、終電に乗ってみよう。でも、うちの田舎のように電化されていないようなところには、「終電ちゃん」はいないだろうなあ。なにしろ「電車」じゃないし。

☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。


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放送大学通信指導(錯覚の科学)提出

2017-11-15 19:14:35 | 放送大学関係
錯覚の科学 (放送大学教材)
クリエーター情報なし
放送大学教育振興会



 放送大学で今学期履修している2科目のうち「錯覚の科学」の通信指導をWebより提出した。 教材に同封されていた郵送用のものには提出期間が11月16日~30日と書かれていたので、そのつもりでいたのだが、Webによる提出は9日から受け付けているようだ。

 既にレポートはやっていたので、あとはそれを入力するだけ。とりあえず1科目の受験資格を得たことになる。
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書評:引っ越し大名三千里

2017-11-13 12:31:13 | 書評:小説(その他)
引っ越し大名三千里 (ハルキ文庫)
クリエーター情報なし
角川春樹事務所

・土橋章宏

 江戸時代に松平直矩という大名がいた。徳川家康の次男結城秀康の直系に当たる名門なのだが、父が藩主の頃から、国替えによる引っ越しが生涯で7回にも及んだ。ついたあだ名が、「引っ越し大名」というありがたくも無いもの。この作品は、主に、彼の5回目の引っ越しにあたる播磨姫路藩から豊後日田藩への国替えの様子を描いたものだ。

 現代でも引っ越しはなかなか大変だ。サラリーマンなど、辞令一枚でどこに飛ばされるか分からない。もっとも、サラリーマンなら、家族を残して自分だけ単身赴任という手もあるのだが、この時代の国替えは、大勢の家臣やその家族を引き連れていく必要がある。その費用だけでも莫大なものだ。この費用の捻出が大問題なわけである。もちろん、幕府は補助などしてくれない。自腹で捻出しないといけないのだ。

 おまけに今回はもう一つ困ったことがある。姫路藩は15万石だが、日田藩は半分以下の7万石。減封である。要するに降格左遷だ。どうも親戚の越後高田藩が起こしたお家騒動で仲裁に当たったことのとばっちりらしい。収入が半分以下になるのだから、3000人余りもいる家臣を全員連れて行くわけにはいかない。大胆なリストラが必要となる。ところが間の悪いことに、これまで国替えを取り仕切ってきた板倉重蔵は先月既に亡くなっていた。

 そこで、引っ越しの差配を押し付けられたのが、これまで書庫係をしていた片桐春之介。出世欲もなく、書庫に閉じこもって本だけ読んでいれば幸せという人物である。彼は、本名よりは、「かたつむり」という名で知られていた。

 誰がやっても失敗するだろうと思われる、減封での国替えの「引っ越し奉行」を仰せつかった春之介だが、ここから、思いもよらなかった春之介の大活躍が始まる。減封ということで、家老の持ち物を容赦なく処分させたり、多くの家臣を帰農させたり、果ては、殿様の直矩にまで、かって色目をつかったことで目を付けられていた将軍綱吉寵愛の柳沢吉保(自分を責めていいのは将軍さまだけ)に対して、「責めより受けがいい」としなを作らせる始末。もう完全に開き直りである。この物語は、引きこもりに近かった春之介が、藩の一大事に当たって、とんでもない役目を無茶振りされて大きく成長する成長物語なのだろう。春之介の活躍ぶりはなかなか痛快だ。

☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。

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書評:邪馬台国をとらえなおす

2017-11-11 14:11:49 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
邪馬台国をとらえなおす (講談社現代新書)
クリエーター情報なし
講談社

・大塚初重

 中国の三国志魏志倭人伝に記された「邪馬台国」。2世紀後半から、3世紀中頃にかけて、女王卑弥呼が支配した幻の国。それは、果たしてどこにあったのか。

 我が国の古代史の中でこれほど多くの人を引き付けたテーマはないだろう。特に知られているのは、大和説と九州説だが、その他にも多くの説があり、まさに百家争鳴の状態である。

 本書は、発掘考古学の視点から、邪馬台国の謎に迫ろうとするものだ。発掘考古学とは、モノを基礎に据えて、型式学と層位学の方法論で過去を探っていく学問である。ここで、型式学とは、出土物を特徴ごとに分類するもので、層位学とは、遺物を含む層の積み重なりの順序などで年代の新旧を探っていくものだという。なお、著者は1926年生まれの明治大名誉教授で考古学界の重鎮ともいえる人である。

 邪馬台国の時代は、従来は弥生後期だと考えられてきたが、最近の考古学の研究成果からは、古墳出現期であると考えられるようになってきている。そして、この時期にヤマトの地に突然現れたのが、箸墓古墳を中心とする纏向遺跡である。それでは、この箸墓こそ卑弥呼の墓なのか。事はそう単純にはいかない。まだまだ、邪馬台国論争には数々の謎があり、当分決着はつかないだろう。

 魏志倭人伝には、卑弥呼が魏帝から百枚の鏡を与えられたという。この百枚の鏡とは前漢鏡なのか、後漢鏡なのか、三角縁神獣鏡なのか、それとも画紋帯神獣鏡なのか?これが、候補地推定に大きな役割をすることは確かだが、卑弥呼が贈られた鏡と見られていた三角縁神獣鏡は、既に五百面程度見つかっており、数が多すぎる。また、中国や朝鮮半島からは、鏡はもちろん、鋳型さえも出ていないという大きな弱みもある。

 また、魏志倭人伝には、倭人は鉄の鏃を使うとあるようだ。鉄器は九州からの出土が圧倒的に多い。これが九州説の根拠の一つでもあるようだ。鉄器は、弥生後期には、関東まで普及しており、奈良は、湿った土地で、鉄が残りにくい環境だったというだけかもしれないらしい。

 私自身の考えを言えば、魏志倭人伝をいくらこねくり回しても、そこから正解が導ける可能性はほぼ0に近いのではないかと思う。当時の文書がどれだけ正確性があるのか分からないし、書かれている内容も、明らかに南方の風俗を表しており、これがヤマトの地だといわれてもかなりの違和感がある。

 シュリーマンはギリシア神話に出てくるトロイの実在を信じ、それを実際に発掘してみせた。邪馬台国も同じだろう。どのように理屈を積み重ねても文献史学だけではだめなのだ。地道な考古学的な発見があってこそ、邪馬台国の真実が私達の前に現れてくるのではないだろうか。本書はこれまでともすれば空想や妄想によって語られてきた邪馬台国像に、考古学の観点から新たな光を当てるものといえよう。

☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。


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