私は、別ブログ
「風竜胆の書評」の方に書評を掲載している。もう5~6年は続けているはずだが、なかなか難しいもので、いつまでたっても上達したような気がしない。しかし、最近色々と思うところもあったので、私なりの考えを整理してみたいと思う。もちろん、こんなものは人によっても千差万別であるし、私自身の考え方にしても、時と共に変わっていく可能性だってある。
まず書評とは何かということだ。端的言えば、その字面が示している通り「書」を「評」することだと思う。つまりは、書を評価、批評するということだ。「書評」という文字を使って、それ以外の定義はありえない。一応辞書で調べてみると、「書物について、その内容を紹介・批評した文章」(デジタル大辞泉)とほぼ同様のことが書かれている。この評価や批評があるというところが、いわゆる感想文と書評を区別するものだと思う。
しかし、ここにひとつの難しさがある。評価するためには、その論拠を本の中からひっぱってこなければならない。単に「面白かった」とか「良かった」だけでは評価とは言えない。案外と、ネット書評には、このレベルのものが多い。しかし、それを理路整然とやろうとすると、特にミステリーの分野では「ネタばれ」と言われてしまう。もちろん、犯人をばらすなんというのはとんでもない話なので、書評をする場合には、論理性と内容の紹介とのバランスをどうとるかということが非常に難しくなってしまう。これをやたら細かいことまで気にする人がいるが、そうゆう人の基準にあわせてしまうと、すべてがネタばれになってしまいかねない。どこからがネタばれかは、それぞれの良識で判断すべき問題だろう。
上の議論では、一応書評と感想を区別したが、実はこの境界も案外と曖昧であり、ここに2つめの難しさがある。ただ私は、小説などは、ある程度は感想文に近くても良いのではないかと思っている。なぜなら、小説などの場合は、感性に訴える部分が多く、どうしても主観的に成らざるを得ないからだ。しかし、論理性が要求される学術書やビジネス書については、きちんと論拠を示したロジカルな評価を行うべきであると考えている。
しかし、更に3つ目の難しさがある。書評は学術論文ではないので、単に評価するだけでなく、読者が読んで面白いと思ってもらわなくてはいけないということだ。そのためには、論理性を犠牲にして、多少トリッキーな表現をする場合もあるだろう。この加減もなかなか難しい。たまに、ビジネス書等の書評に、定型的なフォームを埋めているだけのようなものを見かけるが、私から言えば論外のものだ。また、「読んだけど、結局難しくてよく分からなかった」というようなものも見かけることがあるが、これはもう書評以前のものだ。
書評とは、一部に見られるように、著者をただ崇め奉るものではなく、著者との知的な対話をするものだと思う。その対話の中には議論ももちろん含まれるのだ。そうは言っても、私自身まだまだ満足にそれができているとはとても言い難い。これからも一層の研鑽あるのみか。それにしても、本の紹介に簡単な感想を書いただけの書評って多いと思う。きちんとした書評の書ける人は、私が書いていた書評サイトでも、それほど多くなかった。しかし、井戸端会議のような感想で、私などには受け入れ難いようなものが、意外に人気があるのは、この国の現状というものだろうか。
(追記)
書評とは、基本的には、序、本論、結論からなるものだろう。つまりは、その本が、どのようなものであるかを、根拠を挙げて論じるものだ。感想を書いたり、長々とつまらないことを述べるようなものではない。もちろん、各段階においては、いろいろなバリエーションができてくるのだが。これが「起承転結」の構成になっているとすれば、それは「書評」ではなく、本を題材にしたエッセイと呼んだ方が良いのだろう。
※H25.11.25 一部修正:多少の修分
※H27.10.31 一部修正:私の書評専門ブログのタイトル変更に伴う修正および多少の修文
※H27.11.25 (追記)記載。
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